2016/08/12

国の借金は将来世代へのツケ回しなのか?①

少し前のことになるが、江田憲司衆議院議員が、「国の借金は将来世代へのツケ回しではない」という持論を力説されていた。

目からウロコの財政学講座①・・・「増税先送りは無責任」と言う人へ

 国債は、子や孫たちへの「借金のつけ回し」、ってよく言われますよね。我々世代は将来の世代に借金を残しちゃいけないんだと。

 でも、ちょっと考えれば、これっておかしいって思いません? あなたが国債を買えば、それは「財産」でしょ。それが相続されれば、国債の満期が来た時、あなたの子や孫が国から元本や利子を貰えるんでしょ。i生きている間に満期がくれば、その人(世代)だけで完結し、将来世代へったくれもない。

 なんでこれが「借金のつけ回し」になるの?その逆で子や孫は得するんでしょ、我々世代(お金)のおかげで。おかしいですか? おかしいって方は反論してほしいですね。

目からウロコの財政学講座② ・・・増税先送りは無責任という人へ

 要は、実際のお金の流れからすると、国債を発行するということは、国民からすれば国債を買う、すなわち「支出」、国(政府)からすると「収入」。国債の満期(返済期限)がくると、国民には「収入(償還金)」が入ってくるし、国(政府)は「支出(支払い)」をしなければならない。結果、「差し引きゼロ(正確に言えば、利子分や国債価格差額分を除く)」ということになるわけです。

 ただし、これはあくまで国債の売買が国内(日本国民が買っている場合)だけで行われている場合。ギリシャや南米の国のように外国(人)が半分以上買っている場合は、国のお金が外国に流出するわけですから、「差し引きゼロ」とは到底ならない。ここが問題なんですね。

 ただ、この点でも、日本の場合は、今でも90%以上は内国民(日本人)が国債を買っている。だから、まだまだ大丈夫なんですね。

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目からウロコの財政学講座⑤・・・増税先送りは無責任という人へ

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国債のほとんどを日本人(内国民)が買っている現状では、その借金は、銀行やサラ金などの借金とは本質的に違います。もし、あえて家計に例えるなら、「旦那が女房に借金している場合」に例えるべきなのです。この場合は、同じ家庭内借金ですから、その家計全体では借金しているわけではありません。旦那と女房で帳消しなのです。だから、この借金がいくら増えたところで、その子供や孫たちがその返済や利払いに苦労することはないのです。

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江田氏が唱えているのは古典的な説だが、少数の人々の間ではかなり根強い影響力を持っているように思われる。それはこの一見単純なロジックが、その単純さゆえに実は結構やっかいな代物であり、きちんと反論しようとすると意外に話がややこしくならざるを得ないからなのかもしれない。

江田氏の説に対しては、すぐさま、中嶋よしふみ氏が反論記事を掲載した(一部を下記に引用)。しかし一見有力な反論に見えるこの論評は、よく考えると江田氏の疑問の核心に答えていない。

国の借金は国民にとって財産? 民進党・江田憲司氏の摩訶不思議な財政学。

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次世代からの前借りとも言える。前借りしてお金を使った側にとっては資産だが、使われた次世代の側にとっては言うまでも無く借金だ。先ほどの例ならばBさんは100万円の国債を確かに相続はしているが、国の借金返済のために税金を100万円「余計に」とられるだけの話だ。錬金術はありませんよ、としか言いようが無い。

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きっと江田氏の話を聞いた生徒たちから、借金は売上から返すんですよね? 国だと多分それは税金ですよね? ということは今のお爺ちゃんたちが貰ってる年金は、将来僕たちが働いて払った税金から返すんですよね? つまり大人の借金を僕たちが返すってことですよね? それってつけ回しって言わないんですか? ……と突っ込まれるだろう。

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お金の流れは、ストックとフロー、あるいは企業会計でBS(資産・負債)、PL(売上・費用)と表現するが、江田氏はフロー・損益の話を無視してストック、つまり資産と負債の部分しか見ていない。PLとBSの関係、ストックとフローの関係は商業高校で簿記3級を習っている高校生でも分かる程度の話だ。

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江田氏が上記の記事を読んだら、きっと次のように反論するだろう。

「国の借金返済のために税金を100万円『余計に』とられるけど、他方では100万円の国債を相続しているから、将来世代の資産と借金は差し引きチャラ、プラマイゼロでしょう。それの何がいけないの?」

江田氏は国債が将来の増税で返済されることを否定しているわけではないし、ストックしか見ていないわけでもない。増税がある一方で、資産ももらっているのだから負担は増えていない、と言っているのだ。フローに着目して説明するならば、将来世代は税金を払うかもしれないが、その際には国債の償還によるキャッシュインフローもあるのだから問題ない、ということになる。


次に、江田氏に直接向けられたものではないが、この種の「ツケ回し否定派」に対する反論として、國枝繁樹氏の解説を見てみたい。

「内国債は将来世代の負担ではないから積極財政を実施すべし」のウソ

氏のポイントは、比較のベースを明確にすることである。簡単に要約すると、「国債が相続される場合」と「国債以外の資産が相続される場合」とを比較すると、前者の場合は将来世代の手許で資産と増税とが相殺されて消えてしまうのに対し、後者は次世代の手許に資産だけが残る。だから後者との比較において、前者では将来世代の負担が増している、というものである。

この議論は、核心に近いところを突いているとは思うが、これだけでは江田氏は次のように反論するだろう。

「だから『プラマイゼロ』だと言っているでしょう。『後者』のシナリオと比較すれば確かにプラスの資産は遺せていないかもしれないが、『前者』も少なくとも次世代に負担を押し付けてはいないでしょう。だって増税は資産と相殺されてゼロなんだから。それの何が問題なの?なぜプラスの資産を遺すことを前提に、『プラマイゼロ』が『負担』という話にすり替わってしまうのか。」


以上見てきたように、「プラマイゼロ」を立証するだけでは、江田氏をはじめとする「ツケ回し否定派」に対する十分な反論とはならないのである。プラマイゼロだから問題ない、というシンプルなロジックこそが、江田理論の基盤であり、その欠陥を理解することは、実はそんなに単純ではない。

(続く)
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2015/07/08

【読書】 「ドイツ帝国」が世界を破滅させる エマニュエル・トッド



 最近のギリシャの債務問題を巡っては、EU・ユーロ圏内でのドイツの発言力の強さが際立っている。と言っても、日本から見えるドイツは、言語も文化も多様な独立主権国家が集まったEUの中の「同輩中の首席」に過ぎない。しかし著者が見据える欧州はドイツ一国によって完全に支配された、米国をも凌駕する規模の覇権国である。

 曰く、ドイツ経済は欧州で一人勝ちし、ロシアからのガスパイプラインも押さえてロシアとの交渉でも主導権を握る。(日本と同様の)高齢化する成熟市場というイメージと裏腹に、欧州は域内に多くの新興国を抱え、これらが安い労働力と豊富な成長機会を提供する。文化・政治的にも、オーストリアやベネルクス、ハンガリーなどは元々ドイツの一部のようなものだし、借金まみれの南欧はドイツに頭が上がらず、フランスは自主的にドイツに隷属した。アメリカはもはや欧州大陸内での当事者能力を失いつつあり、ドイツの対ロ政策に追随することでその弱さを隠している。

 著者はまた、イギリスのEUからの離脱は必然だと予言する。数年前から度々話題に出てくる話だが、これを「独・仏・英を筆頭に多数の国がバランスを保つ多極的な欧州」という枠組みを前提に、「南欧に手を焼くドイツを尻目に、EUから距離を取る」という風にとらえる、いまいちピンと来ない。しかし「南欧が弱いから」ではなく「ドイツが強過ぎるから」という視点で見ると、違うストーリーが見えてくる。
 ドイツが完全に支配するEUという枠組みの中で、イギリスは辺境の島国でしかない。その中でイギリスが強力な発言権を確保することは、これまでもこれからも、あり得ない。それは、ユーロに参加せず大陸から距離を置くというイギリス自身の選択の結果ではない。イギリスはどう足掻いたとしても、経済力・生産力と地理的・文化的近さの両面において他の欧州大陸諸国を手なずける上で圧倒的に優位な地位にあるドイツの発言力に、遠く及ばないのだ。EUの中でのイギリスは、リーダーの一角などではなく、単なるマイノリティでしかない。
 だとするとイギリスの取るべき道は、欧州の中でドイツの属国に成り下がることではなく、アメリカとの特別な関係や、カナダやオーストラリア、アフリカ諸国も含めた英連邦の遺産を活用して独自性を発揮する方向である。

 前半で語られるドイツ論は、(その当否を誰にも評価しきれないところもあって)一つの見方としてなかなか刺激的なのだが、後半は、「富裕層と金融資本が政治を牛耳って可哀そうなギリシャ人に無理やり借金をさせた」というような、根拠のない陳腐な妄想的陰謀論と、サルコジ前大統領への感情的な罵倒が延々と続き、読むに堪えない。

 ケインズ政策を論じた下記の記述に至っては、噴飯ものである。

ケインズの勝利と国家のカムバックが歓迎されました。
…ところが問題がありました。金持ちたちのケインズ主義だったのです。
 景気刺激の財源を貨幣創出―「輪転機を回す」というやつです―で賄えば国家に負担無く済むのにそうはせず、借入で調達したのです。
 これでは、金持ちのお金の安全を確保するばかりで、需要不足にはいささかも根本的な答えとなりません。この贋ケインズ主義は…(後略)



 輪転機を回して財政支出を拡大する(そんなことをすれば当然、通貨の信用は地に堕ちる)のが真正のケインズ主義だなどという珍説は、初めて見た。

 外交力学を論ずる彼の視点は鋭いが、経済を論評すると基礎的な理解を欠いていることを露呈し、その言説の全てが胡散臭く聞こえてくるので、やめた方がいい。

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2015/07/07

ギリシャはユーロを離脱するのか

緊縮策への反対票が上回ったことで、ツィプラス政権は強気な姿勢で交渉に臨むだろう。

これに対し、EU側は譲歩の余地はないことを明言してきた。当初は「緊縮賛成派が6~7割」とか「緊縮受け入れという政策転換を正当化するためのお墨付きを得るため」などという楽観論もあったが、そうであるなら、国民投票をやらせて緊縮賛成への民意を確定させればよかった。EU側が国民投票を行うこと自体に激しく反発したのは、ギリシャからの事前の説明がなかったという事情もあろうが、それも踏まえて、後に緊縮反対への呼びかけを鮮明にするツィプラス政権の魂胆と、ギリシャ国民の空気を当初から正しく読んでいたからなのだろう。

失業率の高いフランスにはギリシャへの同情論もあるようだが、ドイツ国民の大半は譲歩を許さないだろう。週末までのEUの強硬姿勢は、ギリシャ国民に対して緊縮賛成への投票を促す脅しであり、同時にドイツ国民に対するパフォーマンスという側面もあったと思うが、事ここに至ってしまうと、強硬な態度は必ずしも債権回収の極大化につながらないことが、債務問題の難しいところである。

EU側が、妥協せずに緊縮策と債務返済を要求し続ければ、ギリシャは公然と借金を踏み倒す道を選ぶだろう。手続き的にそれがユーロ離脱に直結するわけではないが、こうなってしまっては、ECBにあれこれ指図されるよりは、金融・為替政策を自由に決定できるように自国の通貨を持つことを選択するだろう。
過去の債務を堂々と踏み倒すためには、その後同じ相手から借金しなくてもやっていける見通しが立たなければならない。この点を考えるうえでは、ギリシャの経常収支と、西側以外の資金提供元、具体的にはロシアと中国が鍵となるだろう。

ユーロ離脱後のギリシャは相当な輸入インフレに苦しむことになるが、観光その他の輸出産業は息を吹き返す。近年の緊縮策と内需の縮小により、ギリシャの経常収支はすでに黒字化している。通貨が切り下がれば、大幅な黒字に転換する可能性もある(必需品の輸入依存度も高いので、価格効果が大きく出て少なくとも当面は赤字に転落するだろうし、それが長期化する可能性もあるが)。
ロシアと中国のギリシャへの接近がどの程度進んでいるのかは分からないが、少なくとも規模的には、既にある程度の緊縮を達成したギリシャの多少の赤字を両国でサポートするのは、造作もないだろう。しかしそこまで行ってしまうと、ことは通貨問題に留まらない。ギリシャはEUやNATOからも抜けてロシアの庇護下に入るのか、という話になるが、ギリシャの体質は権威主義的ではないので(もしもそうであればこんなアンコントローラブルな事態にはなっていない)、さすがにその覚悟はないだろう。

それでもユーロ離脱はギリシャにとって、大いに現実味のある選択肢ではあり、かつそれはEUにとって、債権回収という意味では最悪の結果をもたらす。したがって瀬戸際戦略が有効に機能する。今度はEUが、難しい判断を迫られる番である。

ギリシャがどこまで強気に出られるかは、ユーロ離脱後にロシアや中国の軍門に下ることなく経済を再建できるかにかかっていると思われる。もちろん、ギリシャ国民が国民投票で示したのは緊縮策へのNOであってユーロ離脱へのYESではないが、ツィプラス首相の楽観論を完全に鵜呑みにしたとも思えず、離脱のリスクが高まることは理解したうえでのNOだろう。ギリシャ国民が求めるのは相当に大きな譲歩であり、EU側がそれを受け入れることはポルトガルやイタリアなどの手前、難しいのではないか。
土壇場で双方が譲歩して妥協が成立する可能性も残されてはいるが、合意が成立する可能性は、最早5割を切っているように思われる。
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2015/07/04

【読書】 憲法で読むアメリカ史(全) 阿川尚之




分かったようでよく分からないアメリカという連邦国家は、その成り立ちからして日本と全然違うが、そこに端を発して法や国家というものに対する意識がずいぶんと違う。

239年前の今日、1776年7月4日に発せられた独立宣言は、13のstateの共同声明(The unanimous Declaration of the thirteen united States of America)であって、この時アメリカは13州のゆるい連合体でしかなかった。その後1983年のパリ条約でようやくイギリスは独立を追認したが、その第一条でイギリスが承認したのも、下記の通り、それぞれが自由で独立した主権を持つstateの集合体である。

The Definitive Treaty of Peace 1783
Article 1:
His Brittanic Majesty acknowledges the said United States, viz., New Hampshire, Massachusetts Bay, Rhode Island and Providence Plantations, Connecticut, New York, New Jersey, Pennsylvania, Maryland, Virginia, North Carolina, South Carolina and Georgia, to be free sovereign and independent states, that he treats with them as such, and for himself, his heirs, and successors, relinquishes all claims to the government, propriety, and territorial rights of the same and every part thereof.
http://avalon.law.yale.edu/18th_century/paris.asp



一応1781年に、13州の足並みを揃えるために連合規約が制定されて連合議会が発足していたが、その権限は弱かった。そこで1787年にようやく合衆国憲法が起草されたが、それを各州が批准すべきかをめぐって大論争が巻き起こった。 

もっとも根本的な反対理由は、独立革命によって各植民地の人々がようやく獲得した民主的な共和政体が、連邦政府の樹立によって失われるのではないかという恐れである。イギリスとの独立戦争を勝ち抜いて、国王や貴族の圧制から自由になった。その結果、自分たちで政治を行い、自らの運命を決定できるようになった。(中略)それなのになぜ再び連邦政府を創設して、遠くにいる顔も知らない少数の人々に自分たちの運命をゆだねるのか。連邦政府ややがて肥大し、人々の自由を圧迫するであろう。各州の独立は失われるであろう。そのような危険を冒してまで、どうして中央政府を樹立せねばならないのか。(p36)



こうした反対意見に対して憲法を擁護した反論が、歴史に名高い名著『フェデラリスト』である。

その後、南北戦争、大恐慌から第二次大戦という二つの危機を契機として、それぞれリンカーン、ローズヴェルトという強いリーダーシップを発揮した大統領の下で、連邦政府の権限は大幅に拡大した。しかしその過程では、たとえば「奴隷に自由を与える連邦法は、憲法で保障され、州法で認められた財産権(奴隷に対する所有権)を侵害して違憲ではないか」、「大恐慌下で制定された、競争制限的な連邦規約は、憲法で定められた連邦政府の権限を超えているのではないか」といった争点をめぐって、州と連邦の権限に関する激しい思想的な対立が起こった。
時に連邦裁判所の判決は政府によって公然と無視され、裁判所の権威は大いに傷つけられたが、その中で妥当な落とし所を常に模索し、発展してきたのが、アメリカの司法なのである。


より上位・より広範囲の権威にみんなが従うことで全体の秩序を保つことを当然のように重視する傾向が強い日本人の感覚からすると、アメリカが時々のぞかせる国連軽視・自国優先の態度はとんでもなく傍若無人なように感じられるが、州と連邦との関係が常に相対的で時に緊張を孕むものだったこの国の歴史と伝統に照らせば、国連やICJ(国際司法裁判所)の方針に自国の利害を優先することは、主権国家が状況次第では当然選び得る手段として、何ら違和感を持たないところなのかもしれない。

日本人は、一方では制文法を絶対的なものとして非常に重視し、他方で誰も守らずに違反が横行している法(スピード違反や個人情報保護法など)をたくさん作るという、考えてみれば不思議な人々である。この二つは一見矛盾するようだが、誰も守れない法律を作って役人の裁量で処罰するという裁量行政が広く受け入れられて機能するのは、法律の文言を絶対視する根底意識があるからなのだろう。


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2015/04/23

【読書】 21世紀の資本 トマ・ピケティ (続き)



ピケティの議論の検証の続きである。


仮定3:資本が偏在し、かつそれが固定化する

まず「資本の偏在」に関してである。
私が思うピケティの議論の最大の欠陥は、前回も少し触れたがライフサイクルという視点をほとんど無視していることである。

ピケティは第7章で労働と資本との集中度を単純に比較する議論を延々と展開しているが、多くの人は、ゼロに近い資産からキャリアをスタートし、若い頃はなかなか貯蓄もできず、中年以降に一気に資産を増やして引退生活に入る。これは終身雇用と年功賃金が残った日本に限った話ではなく、アメリカでも、65歳以上の人の資産の中央値(171,135ドル)は、35歳以下のグループの資産の中央値(6,682ドル)の25倍に達する

net worth by age


一方、年齢グループ別の所得の格差は、せいぜい2倍程度である(2013年では、7万ドル弱 vs 約3.5万ドル。こちらは中央値ではなく平均値だが)。

household-income-by-age-bracket-median-real (1)

ここでは25倍の資産格差が妥当な水準なのかそれとも世代間の過度な格差なのか、といった問題には立ち入らないが、いずれにしても、様々なライフステージの人々が同時に生きている社会全体を見たときに、所得よりも資産の方により大きな格差が観察されるのはごく自然なことである。

ピケティはこの点にも一応論及はしているが、「実際は、富の集中は年齢層ごとに見ても、人口全体とほぼ同じくらい大きい」(p256)とさらっと述べるだけで、裏づけとなるデータも何ら示していない。もちろん資産が大きく偏在しており、かつその度合いが所得よりも大きいということは直観にも合致はするし、多分正しいのだが、この大著で示されるデータはそれを論証する上では片手落ちと言わざるを得ない。

(続くかも)
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