2010/01/31

東山魁夷展@山種美術館

恵比寿にある山種美術館というところで、東山魁夷の絵を見てきた。

たまたま見かけた、この「年暮る」という絵を使ったパンフレットに釘付けになり、ほとんどこの絵を観に行ったようなものである。実物は、すばらしかった。

higashiyamakaii toshikuru

なんでこんな色が出せるんだろう。雪の夜の京都の、ひやりとして薄暗い静寂が伝わってくる。絵の中に吸い込まれて本当に高台から街を見下ろしているような気がしてくる。夜に浮かび上がる雪景色は、こんな風に青白い。
瞳孔が開いているときにだけ見える、独特の薄暗い景色。その薄暗さ、冷気、静寂を、こんな風に二次元の絵で伝えられるってほんとにすごいことだと思う。

なお、この特別展は今日で終わってしまいました。。興味持っていただいた方、ごめんなさい。
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2010/01/30

【読書・映画】手紙 東野圭吾






服役中の強盗殺人犯の弟が、兄の犯した罪のために様々な差別を受けながら生きていく姿を描いた作品。映画がよかったので、小説も読んでみた。映画に感動した方は、ぜひ、せめて最後の100ページくらいだけでも小説を読んでみてほしい。映画もよかったけど、とても大事な部分がカットされているので。

テーマは「差別」なのだが、差別と言っても、主人公に罵詈雑言を浴びせる人間は、作中ほとんど出てこない。みな彼に同情する。同情しつつ、そっと距離を置くのだ。誰もが、自分が一番かわいいから。
主人公は人生の節目節目で、恋人やバンド仲間や会社など、重要な人から距離を置かれてしまう。その人たち自身が、主人公に敵意や蔑みを向けるわけではない。でも彼らには彼らの、他者との絆があり、その絆は「社会」という無限の地平にどこまでもつながっている。その無限の地平の全ての人々をつかまえて「こいつは本当はいいやつなんです」と説得することは不可能だ。そして社会との大事な絆のいくつかを断ち切ってまで主人公と運命を共にしようと思う人は、ほとんどいない。人生の節目だからこそ、人は離れていく。そのことを、誰も責めることはできない。それが現実。

主人公は卑屈になっていく。そんな彼に勤務先の社長がかける言葉が、心を打つ。主人公がその状態から社会に生還するためには、こつこつと一本一本、人との絆をつないで社会性を取り戻すしかないのだ、と。
彼は元気になる。前向きに努力し、結婚し、子供ができる。映画では、主人公の妻が、どれだけ差別されても、逃げずに胸張って道の真ん中を歩いて行こうと訴えてくれる。とても感動的だ。

でもそれが甘いのだ。小説では主人公は、「正々堂々と生きていく」という考えこそが安易な選択であり、甘えなのだと、後に思い知ることになる。だから主人公は、あのような手紙を兄に書いたのだ。
なぜ「胸張って道の真ん中歩いて行こう」と言われた直後に、あんな手紙を書くのか、なぜ突然あの人を訪問したのか、映画ではよく分からない。小説を読むと、それがよく分かる。後味は映画の方がよいかもしれないが、より深く心に残るのは、原作の方だった。

差別とは何か、社会とは何か、社会の中で生きていくとはどういうことか、犯罪とは、贖罪とは、自殺とは、、、いろんなことを考えさせられる作品だった。


なお、映画も、多少端折ってはいるもののとてもよかった。映像は美しいし、配役もよかった。沢尻エリカが、非常に好演ではあったものの、あの役にはちょっと華がありすぎる感じもしたが。。

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2010/01/16

【読書】日本辺境論 内田樹



「日本人は辺境人である、ならば「普通の国」など目指さずに、辺境人としてのユニークな個性を活かしてやっていこう」という、ちょっとシニカルで、ある意味前向きな日本人論。

著者自身が始めから宣言しているように、辺境人である、というテーゼには何ら新味はない。要約すれば、常に中華帝国の「辺境」にあった日本は、外国から進んだものを取り入れてキャッチアップすることを得意とするが、新しい世界像や哲学などを自ら構築することは苦手である、といったところになろう。なんとも陳腐である。
しかし本書は面白い。面白いのは、第一に例証が鋭く小気味良いからであり、第二にその先の考察がなかなか深いからである。

本書によれば、「自国文化論の類の書物がこれほど大量に書かれ、読まれている国は例外的」である。それは、私たちがどこかにある本当の日本人の原点や祖形を知らないからではなく、「日本文化とは何か」というエンドレスの問いこそが日本文化だからである。丸山眞男の言葉によれば、たえず「きょろきょろして新しいものを外なる世界に求める」のが日本人だから、ということになる。

ヨーロッパでは、「社会の根源的な変化が必要とされるとき、最初に登場するのはまだ誰も実現したことのないようなタイプの理想社会を今ここで実現しようとする強靭な意志をもった人々」である。一方、日本の政治リーダーや知識人は、常に正しい解を海外に求めてきた。日本人は、『私が世界標準を設定するので、諸国民もまたこれに従っていただきたい』とは決して言わないのである。

「私の決めたルールが他のルールを退けて多数派の同意を得れば、それが世界標準になるのが『英米式』なんです。『みんなが英米式でやっているから英米式でやりましょう』というのは『日本式』なんです。」
なかなか言いえて妙ではないか。


ここまでは、よく言われていることを面白く言い直した感が強いが、ここから先は結構新しいと思う。

日本人は、辺境であることを逆手にとって、知らないふり、あるいは知らないと思い込むことを覚えた。

「知らないふり」は外交面で発揮される。例えばアメリカの核の傘の下で、当初は戦勝国から押し付けられた平和主義を我が物のように振りかざして、経済成長に邁進することを可能にしたという(ここはもう少し詳細に議論を展開してほしかったと思う)。

「知らないと思い込むこと」は、効率のよい学びを可能にした。日本の求道における師弟関係には、弟子にはこれから学ぶことの価値が分からない、という前提がある。弟子が最初にやらされるのは便所掃除や雑巾がけであり、最初は疑問を持ちながらも一生懸命繰り返しているうちに、何かが見えてくる。
それこそが学びの本質である、と著者は言う。確かに、日本では子供向けのマンガに至るまで、弟子が意味も分からず師について修業に励むと、知らぬ間に実力がついている、といったエピソードは、枚挙に暇が無い(例えば、亀仙人の下での悟空とクリリンの修業や、スラムダンクの桜木花道など。最近は減っているのではないかという気もするが)。

一方英米式では、教える側が教えるものの価値を説得しなければならない。教わる側は、それに基づいて、教わる前に教わる内容やその価値を知った上で、教わるか否かを選択するのである。このような教育観、「学び」観の違いは、日米双方の大学に通ってみて、私自身も強く実感した。
私は著者ほど手放しでこの盲目的な学びを肯定できないが、それは私が未熟だから世の中が見えていないのかもしれない、などと思ったりもする。それこそが、弟子のメンタリティなのであろう。

というわけでこの「学び」のくだりはとても面白かったのだが、それが、常に中華から学んできた辺境人ゆえの、日本独自の姿勢である、という著者の論理にはやや無理を感じる。日米を比べれば確かに上記の様な違いは鮮明だが、では中国の学びはどうかと問えば、それは英米よりも日本に近いのではないだろうか。そもそも、「学び」の例として著者自身が本書で引用している例は『張良』という中国にまつわる能楽である。日本人が辺境人であるが故に上述の「学び方」を体得したというのであれば、それが中国人にも共通しているのはおかしいのではないか?単に洋の東西の違いなのでは?と疑問が沸いてしまう。
「学び方」は日本人の強みとして本書で強調されているピースなので、それと「辺境人」との関係が十分に論証されていないのは、かなり重大な欠陥に思える。

まあ、ともあれ後半は仏教や言語論など様々な話題が展開されていき、最後まで面白い本である。水戸黄門やマンガ脳(これは養老猛司の受け売りらしい)などの解釈も、新鮮だった。
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