2010/02/26

イスラエル・パレスチナ問題の備忘録:ユダヤ人の多様性

今回の旅行と、その途中で読んだ二冊の本で、「パレスチナ問題とは要するにユダヤ人とムスリムとの二者の対立である」という認識が全くもって表面的なものであったことを知った。専門家が口をそろえて「複雑だ」と言うパレスチナ問題がいったいどのように複雑なのか、その一端を垣間見たので、今回はまずユダヤ人の多様性について、書き留めておきたい。

「ユダヤ人」というのは、ユダヤ教の下に結束した同質的な集団だとこれまで思っていたが、全くそんなことはなく、実に多様なのである。

今回特に参考にした本はこれ。



部分的にこれも。



■イスラエル建国とホロコーストとの関係

ホロコーストはイスラエル建国のシンボルと思っていないだろうか?
ホロコーストを契機としてイスラエルという国が建国されたという説明がよく聞かれるが、ホロコーストとイスラエル国家建設運動(シオニズム)の関係は、実は非常に微妙なものらしい。

シオニズムは、もともとディアスポラ(離散して様々な国のマイノリティとして暮らしている状態)を否定し、ユダヤ人国家を建設しようとする主張である。欧州で様々な差別や迫害に会っていたユダヤ人を中心に、既に19世紀末から、パレスチナの土地の買収や外交交渉を通じて地道なシオニズムの努力が起こっていた。その背景には、ロシアで起こったユダヤ人虐殺や、ドレフュス事件で顕在化したユダヤ人差別によって、もはやユダヤ人の安全を確保するにはユダヤ人自身の国を作るしかないという危機感が強まったことがある。

このシオニスト達が、第二次大戦後のイスラエル建国を主導したのである。ユダヤ人国家の建設などほとんど夢物語だった頃から半世紀以上闘争を続けてきた彼らにしてみれば、ホロコーストの虐殺は、「ヨーロッパは危険だからパレスチナに国を作ろう」という自分たちの呼びかけに耳を貸さずにディアスポラを続けた愚かな人々が自ら陥った結果であり、「だから言わんこっちゃない」という思いがある。しかもナチスに対して勇敢に戦って死んだのならまだしも、従順に収容所に送り込まれ、易々と殺されてしまった。イスラエル建国者達の本音としては、ホロコーストは結束のシンボルなどではなく、汚名であり恥辱なのだそうだ。

だからイスラエルでは、「ホロコーストは、学校では教えられず、ヘブライ大学でも研究対象にはならなかった。劇場でも演劇でもホロコーストには言及されず、詩・小説でもテーマにはならなかった(臼杵)」のである。実際、ドイツやアメリカにはホロコースト博物館的なものがたくさんあるのでイスラエルにはさぞたくさんあるんだろうと思って来てみたが、イスラエルにおけるホロコーストの展示は実はそれほど多くも大きくも無いのである。

しかし他方で、ホロコーストは海外からの同情を集めてイスラエルの国際的立場を有利にする上では格好の材料であった。このため、シオニストのリーダー達は、「ホロコーストをユダヤ人国家建設の正当化の材料として役立つ限りにおいては大いに利用した(臼杵)」のであった。

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写真:ベルリンのユダヤ博物館にあるホロコーストをモチーフとする展示


■民族の多様性

イスラエルの多様性という意味では、そもそもユダヤ人とは誰のことか、その基準は人種なのか、宗教なのか、といったことも一つの論争テーマである。ここではとりあえず、現在イスラエル国籍を持っているユダヤ教徒に限定するとして、その中にも実はいろんな人たちがいる。

ユダヤ人というのは概ねこういう白人達だと思っていないだろうか。
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ユダヤ人=白人、ムスリム=浅黒いアラブ人という図式は、実はかなり間違っている。

ユダヤ人=白人のイメージは、おそらく、ホロコーストやアンネ・フランク、アインシュタイン、スピルバーグなどのイメージが強いからだろう。あるいはアメリカやヨーロッパに行ったことがある人は、彼の地でこうした白人ユダヤ人を見かけることが多いからかもしれない。

しかし実は、先祖代々中東出身で浅黒い肌と濃いヒゲをもち、アラビア語を母語とし、アラブの服に身を包み、アラブ料理を食べ、それでいて敬虔なユダヤ教徒のユダヤ人という人々が、イスラエルにはたくさんいるのである。アフリカ出身の黒人のユダヤ人もいる。(逆に白人のムスリムももちろんたくさんいる。)実際、今回の旅行でも、そういう人々にたくさん会った。イスラエルという国は、私たちが漠然とイメージするよりもはるかに多様な、多民族国家なのである。

大まかに分類すると、①ヨーロッパ出身でイディッシュ語という言葉を話す「アシュケナジーム」(多くはドイツやポーランドにいた)と②非ヨーロッパ系の「スファラディーム」(15世紀にスペインを追われてオスマントルコ領に住み着いた白人)、③イスラーム世界(イラク・イエメン・モロッコ等)からやって来た「ミズラヒーム」、その他ロシア系やエチオピアなどのアフリカ系などがいるらしい。
社会の上流を占めているのは欧州出身のアシュケナジームだが、全体の数としてはおそらくアラブ系・アフリカ系の方が多い。

こうした民族的多様性は、ユダヤ人同士の間でも社会に様々な軋轢をうむ。

例えば中東(ヨルダン、シリア、イラク等々)に暮らしていたミズラヒームと呼ばれるユダヤ人たち。イスラエルの建国はヨーロッパでの差別や虐殺の経験が強い動機となっているわけだが、中東では、もともとオスマン帝国が宗教的に寛容だったこともあり、ヨーロッパほどの組織的な迫害は存在せず、ユダヤ人たちはヨルダンやシリアで比較的平和に暮らしていた。だからミズラヒームの多くは別にユダヤ人国家創設の必要性をそれほど感じていなかったのである。
ところが欧州のシオニスト達が強引にイスラエルなどという国を作ってムスリムとの関係が悪化したものだから、風当たりが強くなって自分の国に居場所が無くなり、仕方なくイスラエルに移住した。移住してみたらイスラエルは白人が牛耳っていて、自分たちは3K労働に従事させられる。これでは踏んだり蹴ったりであり、不満がたまるのも当然であろう。

また、モロッコからの大規模な移民は、1956年にモロッコがフランスから独立してユダヤ人移民の制限を撤廃した頃から始まる。モロッコ系移民は、船が着いたハイファ港から、社会主義的な集団経営農場や、ヨルダン・エジプト等との国境近くの危険な地域へと直送され、劣悪な環境での3K労働を余儀なくされた。それに耐えかねてハイファに戻った者たちがスラムを形成するようにもなる。他方で、ポーランドなどから新たに到着する移民たちには、優先的によい住居があてがわれているように映る。

更に、ソ連の崩壊によって1990年代にはロシアからの移民が激増した。
中東イスラーム圏やアフリカ、ロシアから来たユダヤ移民達は、当然ながら、ヨーロッパから移住してイスラエルを建国した人々とは全く異なる言語・文化・生活様式を持っている。イスラエル政府は、こうした多様な文化を同化させるために教育や徴兵などを活用してきたが、移民の割合が高まった現在ではもはや完全な同化は不可能となっており、イスラエルは多様な文化が共存する他民族国家となっている。


■ユダヤ教信仰を巡る対立

また信仰のあり方をめぐっても、同じユダヤ教徒の中に、敬虔な正統派(イスラエル人口の約2割)と世俗的な人々がおり、その間に緊張・対立関係がある。敬虔な正統派ユダヤ教徒は金曜の日没から土曜の日没までは働いてはいけないと固く信じているため、例えば近所に土曜日に車で外出して彼らの静謐を犯すような不届き者が出ればバリケードを築いてでも阻止しようとしたりする。当然、世俗的に普通の暮らしを送りたい人々と、日常生活において衝突する。
また、敬虔な正統派の男性の中には、自らは働かずに信仰に専心し、妻が働いて生計を立てているケースも多いとされる。これでは生活が成り立たないので、彼らに対しては政府が補助金を与えている。更に、正統派は兵役の義務も免除されている。これらのしわ寄せは当然、世俗派に及ぶので、彼らの不満は相当強いのだそうだ。

また、イスラエルには憲法が存在しない。制定しようという動きはあったが、ユダヤ教を国教に定めようとする正統派と政教分離を重視する世俗勢力との間で折り合いがつかなかったのである。

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写真:嘆きの壁で祈る正統派

中東における圧倒的軍事大国となったイスラエルを支えるユダヤ人達は、一見すると一枚岩だと思ってしまいがちだが、少なくともこれだけの多様性と緊張関係を内包している。そしてもちろんこの他に、イスラエル国内に住む他の宗教、とりわけムスリムとの問題を抱え、そしてムスリムへの対応を巡って、ユダヤ人内部のタカ派とハト派の路線対立も深刻である。だからイスラエルの政局は、常に少数政党が乱立している(選挙制度が比例代表制であることも大きな要因)。

イスラエルという国は、パレスチナにユダヤ人国家を作ろうという壮大な計画の産物であり、近代史上最も大きな努力と犠牲をもって建国された国の一つではないかと思う。そしていろんな意味で、イスラエルはアメリカ合衆国に似ている。
例えば、ヨーロッパからやって来た人々が先住の人々を蹴散らして成立させた人工的な国家である点、世界各地から多様な移民を呼び寄せた多民族国家である点、それらの多様な民族を建国の理念によって無理矢理結び付けている点、また宗教的保守派が政治的に大きな力を持ち、時に世俗的な人々と対立する点、などである。実際、イスラエルは国の設計に際してアメリカを参考にしたようである。(※イスラエルが少数政党の乱立で、アメリカが安定した二大政党制なのは、一重に選挙制度の違いに依ると思われる。もしもアメリカが比例代表制を採用したら、たちまち黒人党やユダヤ党、キリスト教保守党など、様々な政党が乱立することになるであろう。)両国の緊密な関係には、そうした類似性が絡んでいるのかもしれない。


※本稿は、数冊の読書と旅行での印象という、ごく限られた情報を元にした単なる備忘録です。誤解や偏見もあるかと思いますが、悪しからず。
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2010/02/25

中東旅行4日目:死海

さて、早朝からアンマンのダウンタウンを歩き回った後、この日は死海に行くことにした。

昨日はタクシーをチャーターしてしまったので、今日はなんとしてもバスで行ってやろうと思い、ホテルの人に乗り継ぎ方を聞いていざ出発。まずはタクシーでWahadat Stationというバスターミナルまで。しかしこの運転手さん、全く英語が通じない。Stationとか、Busといった基本的な単語もダメ。まあこの辺までは想定の範囲内ではあるが、アルファベットを読めないとは想定していなかった。ホテルの人に書いてもらったバスターミナルの名前を読んでもらえない。今後はアラビア語でも併記してもらわねば。

通行人を呼び止めて通訳してもらい、なんとかバスターミナルへ。

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もちろん英語は全く通じない。と思ったらおっさんが近寄ってきた。Dead Seaに行きたいと言ったら、「死海行きのバスは無いから俺のタクシーで行け、往復で50JD(6,500円くらい)だ」と言う。当然こんなのは信用できないので断って、その辺の人を手当たり次第捕まえて「Dead Sea」と連呼していたら、ようやく一人のおじさんが小さな乗り合いバスに連れて行ってくれた。1.7JD(200円)。安い!宿の人からは直通は無いと聞いていたが、直通だった。

バスターミナルには掲示板のようなものは一切無いし、チケットオフィスすら無いので、現地の人も適当にその辺の人に聞いてバスを見つけて、係の人(見た目には識別不能)に料金を払っている。
日本では全ての情報がきちんと掲示板などに表示されているので、日本語が分かれば、一言も言葉を交わさなくても旅が出来るように設計されている。もちろんその方が便利だけど、掲示板など一切無くてもそれはそれで回るもんだし、旅行者としてはこういうのも楽しいもんだ、などと思いながら、バスの出発を待つ。地元の人たちに混じって、かなり浮いている。

砂漠の中を飛ばして死海へ。
海が見えてきたと思ったら、豪華ホテルが現れ、その前で下ろされた。文字通り砂漠の真ん中に、死海とホテルがあるだけなので、降りたのは僕だけである。とりあえず一番近くにあるMarriottに行ってみた。施設を利用するだけで30JD(4,000円くらい)と言われる。高い。。でもまあ他に行くところもないし、仕方ない。。

とりあえず水に浮かんでみた。当たり前だけど、ほんとに浮く。
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水から上がってしばらくすると、塩が肌の上で結晶化されてくる。

さて、高いと思ったこのリゾートホテル、ものすごくよかったので大満足。死海のビーチに下りていくと、とても静かでゆったりとした時間が流れている。周りには何もないので静寂そのもの。そしてとても空いているのもいい(これはホテルにとっては問題かもしれないが)。
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プールも貸切状態♪ その奥に死海が広がる。
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死海を見ながらぼーっと寝転んでいると、脳みそがとろけていく。。。フンパツしてこのままここに泊まってしまおうかとも思ったが、友人の友人と連絡が着いたので、アンマンに戻ることに。
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2010/02/23

中東旅行4日目:アンマン

街中に鳴り響くコーランで、朝6時頃起床。これを聞くと、中東に来たと実感する。成り行き上、ガイドブックを買わずに来てしまったので、どこに何があるのか全く分かっていないが、何やら遺跡のようなものが近くにあるらしいと宿の人に聞いて、歩いて行ってみた。

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おお、結構すごい。ウィキペディアに出てたやつだ。
高台にあるので雲の流れが速い。その中に朝陽を浴びてそびえ立つ遺跡はなかなか勇壮である。


初めて来たアンマンという街、中東らしい(インドにも通じる)喧騒の街という印象。車がビュンビュン走ってて、絶えず誰かがクラクションをブーブー鳴らしてる。歩行者用の信号があまり無いので、タイミングを見て人がずんずん車道を横切ると、仕方なく車が止まる、という感じ。

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ちなみに途上国・新興国の多くでは交通事故、特に車が歩行者を轢く事故が、感染症などと並んで死亡原因の上位に来ているところが多く、交通政策はPublic Healthの観点からも重要である。あまりルールで縛らないのも文化なのかもしれないが、人がたくさん死んでいるので、もう少し対策を取れないものなのか。
2007年に書かれた記事によれば、ヨルダンの交通事故死亡者数は年間885人で、中東ではエジプトに次いで多いのだそうだ。人口10万人当りになおすと14人で、日本の4.5人の3倍。少し古いデータだが、犠牲者の多くは歩行者との統計もあるようだ

中東やインドを旅行していると、こんな風に道路を横断してて危なくないのだろうか、と思うが、やっぱり実際危ないのである。


さて、アンマンの街並み、坂と階段が多い。

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一見しただけだが、都市計画があまりうまく行っていないんじゃないかという気がする。初日の夜に車で街に入ったとき、ビルやお店が密集した一角が現れたと思ったら、2~3分走ると真っ暗な荒れ地と廃墟が広がり、また5分進むとにぎやかな街が現れるといった感じで、開発が無秩序に点在して行われているというのが勝手な印象。

ダウンタウンには、とても使われているとは思えない廃墟のような建物がものすごく多い。この夜に会った友人の友人のヨルダン人曰く、他の地域が新しく開発されて、人がそっちに移ってしまったらしい。砂漠の中の街なので広げようと思えばいくらでも外に土地はあるし、古い建物を壊すより郊外に新しく建ててしまったほうが楽だし(たぶん土地も安いのだろう)、このヨルダンの友人曰くみんな車を持っているそうなので、それでも十分客は呼べるということなんだろうか。
郊外にショッピングセンターができ、中心部が空洞化してシャッター街と化すというのは、日本の地方都市にも共通の問題だが。。車を持つ人の急速な増加に都市計画が追いついていないのかもしれない。

郊外で見かけたカルフール(柱で隠れてしまっていますが)。その隣もCITYMALLというショッピングモール。
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他にもMecca Mallという大きなモールがすぐ近くにある。このあたり一帯はかなり新しくてきれいな建物が多い。ダウンタウンの中心からは車で15分くらい。

なおアンマンを走る車は、ざっと見た感じでは、ヒュンダイがかなり多い。たぶんシェア4割くらい。あとは、トヨタ、日産、三菱が10~15%ずつくらい、VWもちらほら。といったところか。

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2010/02/23

中東旅行3日目:ペトラ遺跡

エイラートでしばらくのんびりしようと思っていたのだが、ビーチにもアメリカン・ロックが大音量で流れているような、コテコテの欧米風リゾートにうんざりして、予定変更。朝から国境を越えてヨルダンに。

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タクシーをチャーターして、ペトラという遺跡に寄りつつ、砂漠の中の一本道をぶっ飛ばして一気にアンマンまで来てしまった。

ペトラ遺跡は、『インディ・ジョーンズ―最後の聖戦』のラストシーンのロケ地にもなったところ。

こんな感じの切り立った渓谷を抜けていくと、、、

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突然神殿が現れます。ピンク色の岸壁をくりぬいて作られており、とても美しい。

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少し歩くと、こんな雄大な景色が広がる。
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時間が無かったので、途中ロバに乗りました。かなり急な山道をぐんぐん登っていき、意外とパワフル。落っこちないように背中でバランスを取るのは、なかなかスリリングで楽しい。

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アンマンではダウンタウンの安宿に宿泊。アンマンには友人の友人が暮らしてて、「行くかも」という連絡はしてあったけど、本当に来てしまった。


三大宗教の聖地でその神性を感じつつ、世界平和に思いを馳せる、という殊勝なコンセプトで企画した旅が、どんどん気ままな物見遊山と化していく・・・。

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2010/02/22

中東旅行2日目:ベツレヘム、エルサレム、エイラート

エルサレムは、言わずもがな、3つの宗教の聖地です。
初日のことですが、エルサレムを見渡せるオリーブ山という山に登っていくと、馬鹿でかい音楽を鳴らして踊っている一団に出くわす。
不謹慎な旅行者もいたもんだ、などと思いながら近づいてよく聞いてみると、ドミニカ共和国からわざわざ巡礼に来た敬虔なクリスチャンでした。歌が祈りなんだそうです。
そういえば、昔NYのハーレムで教会のミサに行ったときも、リズミカルに歌って踊るミサを目の当たりにして、これがあのヨーロッパの厳かなミサと同じ宗教かと、驚いたものだ。


さてイスラエル2日目の朝は、イエス・キリストが馬小屋で生まれたというベツレヘムに。パレスチナ側にあるため、イスラエル兵が見守るチェックポイントでパスポートを見せなければなりません。

パレスチナ自治区に入ると少し雰囲気が変わります。ムスリムの服装をした人が目立つようになり、街並みは見るからに経済的に厳しそうな感じ。タクシーの運ちゃんも、観光くらいしか産業がないと言っていた。とりあえず、キリストが生まれた場所に立つという聖誕教会に行って来ました。

その後エルサレムに戻って嘆きの壁に行くと、昨日よりずっと多くの人が集まっている。やはり土曜日は特別な日らしい。
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その後、エルサレムを後にして空港へ。昨日よりさらに厳しい質問攻めにあった後、紅海に面したエイラートという港町に飛びました。


イスラエルの国土は、エルサレム周辺はこんな風に緑が広がっていますが、、

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南の方にいくと見渡す限りの砂漠になります。

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その砂漠の中にいきなりドカーンとホテルを建てた感じのリゾート地が、エイラート。古くから港町として栄えたそうだが、いまやその趣は全く感じられない。

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世界一美しいと言われる紅海。大陸から流れ込む川が少ないため、透明度が高いうえに、年間を通じて水温が20度を下回らず、珊瑚の生育に適しているとのこと。まあ正直、石垣島の方がきれいだと思ったけど、大陸の沿岸でこれだけきれいな海は、確かに世界中探してもここだけかも。シュノーケリングしたら熱帯魚がたくさん見られました。

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2010/02/20

中東旅行1日目:エルサレム

前から行ってみたかったエルサレムに来ています。

羽田→関空→イスタンブールと乗り継いで、イスタンブールで飛行機が遅れて2時間余計に待たされ、27時間かかってようやくエルサレムまで辿り着きました。

テルアビブ空港に着陸する直前になぜか飛行機がUターンし、しばらく飛んでからまたUターンするという不可解な行動の後に、ようやく着陸。厳しいといわれる入国審査では、旅行の目的から始まり、イスラエルに友達はいるのか、(いないと答えたら)なぜ観光にイスラエルを選んだのか、(パスポートを見て)香港や中国にたくさん行っているのはなぜか、などなど質問攻めにあいましたが、普通に答えてたら普通に通してくれました。

イスタンブールからの飛行機が隣だったイスラエル人にいろいろ教えてもらったのですが、彼女の英語がネイティブに近いアメリカ英語だったことがちょっと意外でした。ずっとイスラエルで育ったとのこと。街中でも、伝統的な黒い衣装を着てもみ上げを伸ばした青年が流暢なアメリカ英語を話していた。英語もアメリカ人から教わっているのかもしれない。


エルサレムの旧市街は、手前に見えるような城壁でぐるっと囲まれていて、その周りに新市街が広がってます。

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ユダヤ教の安息日にあたる金曜日の夕方から土曜の夕方までは、敬虔なユダヤ教徒は仕事をしません。予定より到着が遅れたため、ホテルにチェックインして出かけたのは4時過ぎ。宿がある新市街の商店街は既にこんな感じでした。

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でも気を取り直して旧市街まで歩いてみると、やっぱりツーリス向けのお店はたくさん開いてました。

スークと呼ばれるマーケットは、昔トルコで見たバザールのような感じ。

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夕暮れの旧市街はとても美しい。
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なお、旧市街には一応ムスリム地区というのがありますが、今日歩いてみた印象では、エルサレムは完全にユダヤ人がdominantな街です。だからこそパレスチナ自治区というのが大きな意味を持つのでしょうが。


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2010/02/14

大相撲トーナメント

先週の日曜日、久しぶりに相撲を観に行ってきました。本場所ではなく、大相撲トーナメントというやつです。

朝青龍の引退直後ということで、いまひとつ盛り上がりに欠ける感もありましたが、初場所でその朝青龍を破った新鋭豪栄道が、この日は日馬富士、白鵬、琴欧州を連破して優勝し、新時代の幕開けを感じさせました。これからは、一人横綱白鵬対チャレンジャーの時代がしばらく続くことでしょう。
トーナメントなので、同じ力士の相撲を何番も見られるのもよかったです。

幕内力士 土俵入り
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横綱白鵬 土俵入り
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立会い前、気合が入る高見盛
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元琴稲妻の粂川親方 やっぱりツルツルでした
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白鵬の力強い四股
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白鵬(手前)対豪栄道 奥に座ってる審判は寺尾
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豪栄道の授賞式
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