2011/09/24

金融政策のまとめ② - 日銀は国債の代わりにケチャップを買え?

日銀がケチャップを買えばインフレになる

前回の結論は、日銀が銀行から国債を買っても、銀行が貸し出しを増やさないので市中に出回るお金が増えない、だから日銀にはデフレを直せない、ということだった。でも、そもそもなぜ日銀は国債ばかりを買うのか?ほかの手段を使ってデフレを直すことはできないのだろうか?例えば、現FRB議長のバーナンキはかつて、「日銀はケチャップを買ってでもインフレを起こせ」と言ったという、有名だが真偽不明の逸話がある。

結論を先取りすれば、それはやってできないことはないが、日銀の権限の範疇を超えるので、やるべきではないと考えられているのだ。

日銀が国債の代わりに、大量のケチャップを法外な値段で購入し続けたらどうなるだろうか?一夜にして億万長者になったケチャップ生産者と小売店がそのお金でさまざまなものを買えば、市中にどんどん現金が流れ出て、やがてインフレが起こるに違いない。


日銀が特定の物を買うことの問題

しかしインフレが起こるということは通貨の価値が下がることであり、それは全国民(正確には円建て資産を持つ全ての人)の負担である。したがって、ケチャップを買ってインフレを起こす政策は、全国民の負担でケチャップ生産者を不当に利することになる。日銀による買い占めで、少なくとも一時的にはスーパーからケチャップが姿を消し、庶民の生活にも影響が出るだろう。また、世の中にたくさんのケチャップ長者が生まれれば、ケチャップ生産への新規参入が雨後のタケノコのように発生して、世の中で必要な量を超えて過剰にケチャップが生産されてしまうかもしれない。
ケチャップは単なる比喩だが、このように日銀が何か特定のものをピックアップして購入すると、市場を歪めることになってしまうのだ。

実際、日銀はケチャップこそ買わなかったものの、1990年代後半以降は国債だけではなく銀行が保有する株式やABS(資産担保証券)などを購入してきた。
前回書いたように、日銀が国債を買っても銀行が貸し出しを増やさないのは、国債の金利がゼロに近く、銀行にとっては国債が現金に入れ替わる前と後で、状態が本質的に変わらないからである。ならば、銀行にとってもっと収益性の高い資産を日銀が買えば、銀行は入ってきた現金を貸し出しや他の金融商品の購入にまわす可能性がある。そこで日銀は、銀行にとって国債よりも収益性の高い、株式やABSを買い取ったのである。

しかしこのオペレーションには二つの大きな問題がある。1つは、リターンの高い商品は当然ながらリスクも高いということである。日銀があまり大きなリスク資産を抱えるには限界がある。

もう1つは、先ほどケチャップの比喩で述べたことに共通する問題である。日銀が特定の資産を買うということは、国の資源配分に影響を与えることになる。特定の会社、たとえばソニーの株を買えば、ソニーの株価は本来市場でつくはずの値段よりも高いものになる可能性が高い。それでインフレが起これば、全国民のちょっとずつの負担でソニーの株主を利することになるし、ソニーの価値が高いという誤ったシグナルを発信して、市場の資源配分を歪めることになる。

例えばソニーは値上がりした株価で増資をして、本来できなかったはずの設備投資をするかもしれない。それによって、ソニーに対抗しようとしていたベンチャー企業の芽が摘まれてしまうかもしれない。あるいはソニーのイメージが上がって、本来なら東芝製品を買っていた人がソニー製品を買ったり、トヨタに就職するはずだった人がソニーに就職するかもしれない。こうした市場における資源配分の変更をもたらし得る介入を、日銀は極力すべきではない。

なぜ日銀は国債ばかりを買うのかと言えば、それは全国民にとって基本的に中立的な影響を持つからである。
もちろん、政府が国債を発行して得たお金で何をするかによって、得する人も損する人も出てくるし、世代間の公平性の問題はある。しかし政府の予算配分は民主的な政治過程を経て決められることに一応なっているので、いろいろ問題はあるにせよ、そこには正統性があると言える。政府が大量にケチャップを買うとしても、それが選挙で国民に承認された政策なのであれば、少なくとも手続き的な問題はない。
それが、日銀という民主的コントロールに服さない独立機関が、恣意的に国債以外の資産をピックアップして買うこととの、決定的な違いなのである。

日銀が国債以外の様々な資産を買い漁る政策は、中央銀行の「金融政策」の範疇を超えて、政府の決定や国会の承認が必要な「財政政策」になってしまうのである。


日銀が文字通りお金をばら撒いたら?

これまで日銀は何かを買うことで市場にお金を供給するという前提で話を進めてきたが、そもそもなぜ何かを「買う」ことしかできないかというと、これもこの資源配分への介入という問題があるからだ。

たとえば銀行に、国債の代金としてではなく無償で現金を上げれば、銀行は貸し出しや配当や従業員の給与を増やしたりして、市中にお金が流れる可能性は高い。しかし、なぜその過程で銀行を優遇していいのか?少なくともそれは日銀が決めてよい範囲のことではない。

あるいは日銀がヘリコプターで空からお金をバラ撒いたり、宝くじの当選者100万人に1億円ずつ配ったりすれば、インフレを起こすことは可能だろう。しかしお金を受け取った人は受け取らなかった人より得する以上、その配り方を日銀が勝手に決めてよいはずがない。全国民に同じ金額を配るとしても、それが公正な配分であることが自明ではない以上、問題は同じである。お金を配る政策が様々な論争を呼び、政治的決定が不可欠であることは、定額給付金や子供手当てを巡る論争を例に出すまでもなく、明らかである。


結局、誰かにお金を配るには民主的政治過程を経た政府と国会の決定が不可欠なのである。では政府が配り方を決めてバンバン支出を増やすから、そのお金を日銀にドンドン刷らせればデフレを脱却できるのではないか。このようにして、国債の日銀引き受けという議論が出てくる。
例えば、政府が日銀に国債を引き受けさせて全国民に100万円ずつ配ったらどうなるか。おそらくデフレは脱却できるだろう。これはやってみる価値のある政策だろうか?

(続く)

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2011/09/23

金融政策のまとめ① - 日銀がお金を増やせば、デフレはすぐに脱却できる?

先日『デフレの正体』に関するレビューを書いた。同書の中では「デフレの正体」は全く論じられていないが、デフレに対する世の中の関心は高く、この本の爆発的な売れ行きに一役買ったのかもしれない。しかしデフレへの問題意識はあれど、なぜそれが問題なのか、どうしてデフレになっているのか、ということに関しては、専門家の理解と一般の人の理解との間に大きな隔たりがあるようだ。

例えばデフレ脱却国民会議は、世の中にお金が不足しているので、これを増やせと主張する。


デフレ脱却国民会議設立趣意書

日本の長期停滞の原因はしつこく続いている「デフレ」という現象です。経済というのはモノとお金のバランスによって成り立っています。しかし、お金の供給を長いこと怠ってしまうと、そのバランスが崩れ、お金が極端に不足します。

すると、人々はモノよりもお金(紙幣=印刷された紙)に執着する現象が発生するのです。この現象がデフレです。人々は紙幣(=印刷された紙)を欲しがってモノを買いません。モノが売れないので企業の業績は悪化し、失業が増え、若年層が定職に就くことができず、世の中に悲観ムードが広がっています。
(後略)



こうした説明は一見分かり易いのでそれなりに支持者がいるようだが、まともな経済学者からはほとんど相手にされていない。ちなみに評論家(?)の池田信夫氏は下記のように述べて嘲笑している。



デフレ脱却国民会議(笑)

(前略)

「お金が極端に不足」するというのは、資金需要が供給を超過するということだが、この場合は(お金の価格である)金利が上がるはずだ。しかし今、長期金利は1%を切る水準で、日銀の政策金利は事実上ゼロである。これは資金が供給過剰になっているということにほかならない。この趣意書を書いた人物には、この程度の初歩的な経済学も理解できないらしいから、ていねいに説明しておこう。

のように金利は資金需要と通貨供給が均衡する水準で決まるので、通貨供給を1から2へ増やせば金利は下がるが、ゼロ以下には下がりようがない。これは通貨供給が需要を絶対的に超過していることを示す。つまり日本経済は、X*のような状態にあるわけだ。ここで3のように日銀が量的緩和をしても、何も起こらない。不足しているのはお金ではなく、資金需要だからである。

(後略)




この議論について、もう少し噛み砕いた説明を試みてみる。


貸し出しが増えないと市中に出回るお金の量は増えない

そもそも日銀はどうやって通貨量をコントロールするのか。その基本は、民間金融機関が保有する国債を買うことである。国債を受け取る換わりに、銀行などに貨幣を渡すのである。この「貨幣」を日銀は自分で創り出すことができるので、その意味では日銀が国債を買えばお金の量は増える。
でもこれだけでは、世の中に出回るお金は増えない。銀行が持っている現金が増えるだけである。銀行が貸し出しを増やしたり、他の金融商品を買ったりすることで初めて、世の中のお金の総量が増えるのである。

ではなぜ銀行はお金を貸すのか?言うまでもなく、利息を稼げるからである。国債やローンには金利が付くが、現金には付かない。だから国債を日銀に売ってしまった銀行は、代わりに入ってきた現金をローンの貸し出しに回したり他の金融商品を買って運用しないと損である。そうやって市中に現金が出て行くというのが、普通の状態での話である。
ところが今は資金需要が不足しているので、金利がほとんどゼロである。銀行が手間ひまかけて、貸し倒れのリスクを取ってお金を貸しても、雀の泪ほどの金利しか得られないから、バカバカしくてやっていられない。そもそも国債を売ることで手放した収益機会(=国債の金利)もほとんどゼロなのだから、日銀に国債を売る前と後で、銀行から見て状態はほとんど変わっていない。だからお金は銀行から外に出て行かず、銀行に積みあがるだけなのだ。


資金需要が不足しているので貸し出しが増えない

この「資金需要不足」ということが、経済学やファイナンス論を勉強したことが無い人には少し分かりにくいかもしれない。お金を欲しがる人は世の中にはいくらでもいる。私だって貰えるものなら欲しい(笑)。でもここで言う「資金需要」とはそういうことではない。

「資金需要」とは「流動性需要」と言い換えてもいい。流動性とは、「今すぐ使える」という性質のことを意味する。現金は今すぐ買い物に使えるが、誰かに貸してしまったら、返してもらうまで使えなくなる。逆に借りた人は、返済期限が来るまで自由に使えるお金を手に入れたことになる。つまり「資金需要」とは、「今すぐ使えるお金が欲しい。そして(この後が重要なのだが)そのために利息を払います」という需要のことである。

もしもこの資金需要がふんだんにあれば、つまり「今すぐ使えるお金」を借りたい人がたくさんいれば、銀行としてはなるべく高い金利を払ってくれる人を選んで貸せばいいわけだから、金利が上がるはずである。ところが今はゼロに近い低金利がずっと続いている。金利が低いということは、お金が余っていて、それを借りたい人が少ないということを意味する。だから銀行は貸したくてもお金を貸せないのだ。

なお、上記の説明では信用リスクとプレミアムを無視した。5%の金利でお金を借りたい人はもちろん世の中にたくさんいるが、こうした人は大抵信用力が低く、一定の確率で返済できなくなる人が出てくる。銀行としては、貸したお金の一部が返って来ないリスクを予め織り込んで、プレミアムを上乗せした高い金利を取らないと、損をすることになってしまう。
このようなリスクプレミアム分を除いた金利は、純粋な時間的価値(=来年ではなく今すぐこのお金を使えることの価値)を反映したものになる。それが、今はゼロ近辺だということである。それは、お金が余っていることと同義である。


資金需要が不足しているのは、経済が成長しないからである

資金需要がある人、つまり「今すぐ使えるお金」を今日借りて、将来利息付で返すことを望む人は、借りたお金を元手に何か事業をしてお金を増やせる自信がある人である。したがって「資金需要が不足している」とは、経済全体としてみたときに、資金を元手に事業を成長させられる見込みが低いということであり、潜在的な経済成長率が低下していることの裏返しに他ならない。


つまり、デフレだから経済が成長しないのではなく、経済成長率が低いから誰も金利を払ってお金を借りようとせず、そのため日銀が国債を買っても買ってもお金は金融機関が保有し続けるだけで貸し出しが増えず、デフレが続くのである。したがって根本的な解決策は経済の成長率を上げる以外に無く、日銀がお金を刷る事ではデフレは脱却できないのである。


(続く)
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2011/09/20

【映画】告白




松たか子主演の話題作。我が子を生徒に殺された女性教師が復讐する話である。
ひたすら重く暗い作品。迫力あるストーリー(やや現実味は欠くが)と、美しい映像と音楽が、独特の世界を静かに作り上げる、いい映画です。

ごく普通の人々が、少年Aを起点として暴力と狂気に染まっていく。冷静に復讐を遂行していく松たか子も、壊れていく少年Bも恐ろしいが、ノリとゆがんだ正義感で陰湿なイジメに走るクラスメート達の狂気も恐ろしい。
色紙に隠されたメッセージに母が気づいた時、重なるように映し出される生徒達の無邪気な笑顔と歓声が、私には最も印象的なシーンだった。

この狂気をどこかで見たことがある気がした。


そう、『映像の世紀』だ。初めて見たのはもう10年以上前だろう。

第二次大戦中のドイツ占領下のパリで、ドイツ兵と交際したフランス人女性がたくさんいた。彼女達は、連合国軍がドイツ軍を撃退してパリを解放した際、フランス人からリンチを受けた。

リンチするパリの人々の、心底愉快そうな笑顔に、私は慄然とした。

占領下の抑圧のストレスとか、強者に取り入った者の自業自得とか、いろいろ意見はあるだろう。でもそうした背景はともかく、隣人の苦痛を純粋に楽しむ邪悪な笑顔を、ひとり二人の悪人でなくごく普通のたくさんの人々が満面に浮かべているこの光景が、映画やドラマの中じゃなくて現実なんだということが、当時の私にはにわかには受け入れがたかった。




件のシーンは、7:50くらいから始まります。画像が粗くて、これだと表情がよく見えませんが。

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2011/09/18

【読書】ポスト・マネタリズムの金融政策 翁邦雄



日銀きっての理論家が、金融政策の潮流を整理した本である。(マクロ経済学の教科書を読んで基本理論を理解した人にとっては)とても分かりやすくまとめられており、最近の流れを大局的に把握する上で非常によい本だと思う。基本的に日銀を擁護する主張を展開しているので、著者の立場を考えるとやや注意して読む必要があるとは思うが、我田引水な議論がそれほどあるようには見受けられなかった。

本書は、その題名どおりマネタリズム衰退後の金融政策を主に論じたものであるが、マネタリズムの盛衰についての記述もまとまっているし、日本ではまだマネタリズム的な発想の色濃い主張がいわゆるリフレ派を中心に展開されているので、ここではまずマネタリズムの盛衰に関して理解をまとめておく。

マネタリズム以前、ケインズ経済学絶頂期の世界では、不況期には中央銀行が市場に多量の通貨を供給して金利を下げ、投資を誘発することでGDPを拡大するというのが常識だった。しかし、オイルショックを契機として先進国を襲った1970年代の深刻なスタグフレーションは、ケインズ経済学への信認を大きく低下させる。インフレが起こっても失業率は下がらなかったからである。

これに対してミルトン・フリードマンを中心とするマネタリストは、その原因は中央銀行が余計な介入をするからだと批判し、中央銀行が政策を恣意的に変えることは経済を撹乱するばかりなので、決まったルールに従って粛々と通貨を供給すべきであると主張した。複雑な経済現象の病因をリアルタイムで的確に診断し、金融緩和や引き締めの波及効果を正確に予測してこれを実行することは、人智の及ぶところではない、という認識がその背景にはある。
通貨供給の具体的ルールとして、フリードマンは「特定の通貨集計量(引用者注:Monetary aggregate。マネーストックとほぼ同義)を一定の率(k%)で機械的に伸ばす金融政策ルール(いわゆるk%)ルールを提唱した。」

マネタリズムの隆盛を受けて、1978年には米国でFRBにマネーストックの目標値の発表を義務付けることが立法化された。更に1979年にFRB議長に就任したヴォルカーは、金利よりもマネーストックに重点を置く金融政策方針を発表する。

但しヴォルカーは実際にはケインズ政策的な発想の持ち主であり、国民に不人気な利上げを実行するための方便としてマネタリズムを隠れ蓑に使ったに過ぎなかったことが、次第に明らかになる(したがってマネーストックは安定しなかった)。しかし結果としてはヴォルカーの(ケインズ的)利上げはインフレ退治に成功を収める。その後、アメリカの金融政策でニューケインジアンが政策の主流派を占める中で、マネーストックは重要な指標とみなされなくなり、FRBは2000年にその目標レンジの公表を中止し、更に2006年にはM3(広義な通貨の種類)の集計すら止めてしまった。

アメリカでマネタリズムが信用を失った主因の一つは金融技術革新だと思われるが、その点に触れる前に日本の経験を振り返ろう。日本では、アメリカとは別の理由でマネタリズムの限界が明らかになる(アメリカも後に2008年の金融危機で経験することになるのだが)。それは信用乗数が一定という仮定が常に成り立つわけではない、ということである。

中央銀行がコントロールできるのは、マネーストック(経済全体の通貨の量)そのものではない。中央銀行は、銀行等の金融機関にベースマネーを供給する。これが増えたとき、銀行がその分貸し出しを増やせば、それが巡り巡ってマネーストックは増える。式で書くと以下のようになり、信用乗数が一定であれば、ベースマネーを増やせば増やすほどマネーストックが増えることになる。

ベースマネー × 信用乗数 = マネーストック

この「信用乗数が一定(或いは安定的)」というのが、マネタリストが「中央銀行はマネーストックを一定のk%で伸ばせ」と主張する際に依拠している前提である。
しかし、貸し出しが増えない何らかの要因、たとえば銀行のバランスシートが毀損しており銀行はその圧縮・改善を急いでいる、企業自身も新規投資を手控えて借金返済を急いでいる、経済の潜在的な成長率が落ちており銀行にとって十分な旨味のある金利を払って成長できる企業が少ない、等によって貸し出しがこれ以上増えないとき(←90年代後半以降の日本はずっとこうだった)、ベースマネーを増やしても、マネーストックは変わらない。このとき信用乗数が一定というマネタリズムの仮定は成立せず、それはマネーストックをベースマネーで割って結果的に得られる比率に過ぎないのである。


さて、マネタリストが前提とする「中央銀行が通貨を安定的に供給すれば物価は安定する」という関係が成り立つためには、もう一つ仮定が必要である。それはマネーストックと物価をつなぐ関係であり、下記のように表される。

マネーストック × 貨幣の流通速度 = 名目GDP

例えば経済全体のマネーストックが100兆円で、年間の名目GDPが500兆円なら、貨幣は平均して5回の取引に使われることになる。「金は天下の回り物」というが、貨幣が何回経済を回るかを示したのが貨幣の流通速度であり、したがって「回転速度」と呼ばれたりもする。この「流通速度」が安定的である、というのがマネタリストにとってのもう一つの重要な仮定である。これが安定的なら、マネーストックが10%増えて110兆円になれば名目GDPは550兆円になることになり、仮に実質GDPが一定であれば物価は10%上がることになる。

流通速度は、多くの場合一定であるが、まれに大きく動くことがある。例えば1930年代初頭の大恐慌期、アメリカでは多数の銀行が倒産し、預金が帰ってこなくなることを恐れた預金者が現金を引き出して余分に手元に置いておく行動に出たため、取引に使われて「天下の回り物」となる通貨が減ってしまった。これは貨幣の流通速度の低下をもたらし、デフレをもたらす一因となった。
逆に、ATMやクレジットカードが普及して、人々が余分に手元に置いておかなければならない現金が減ると、お金は天下を回りやすくなる。それは信用乗数の上昇につながるが、その効果を予測することはきわめて困難である。

また、より直接的な問題として、アメリカでは日常の決済の中心である小切手を振り出せる預金の種類が急激に多様化したことで、何をマネーストックと見做すかの線引きが難しくなり、マネーストックの集計自体が難しくなってしまったのである。

こうした一連の金融技術革新により、マネタリズムが前提としたマネーストックと物価との単純な関係は崩壊していき、それはマネタリズムの衰退をもたらすことになる。

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2011/09/10

【読書】デフレの正体 藻谷浩介




不況の原因を人口動態との関係から解説してベストセラーとなった書籍である。
“「景気の波」を打ち消すほど大きい「人口の波」が、日本経済を洗っている”という観察は基本的に正しいと思うし、この(当たり前の)事実を多くのデータを持って一般の人に知らしめた意義はそれなりに大きいと思う。

しかし、著者は標準的な経済学を理解しておらず、細部を見れば支離滅裂な主張をたくさんしているため、経済学理論を重視する人から酷評されているのは残念なことである。以下にいくつか例示してみる。


まず冒頭で「世の通説を疑え」という趣旨で読者に向けられた質問は、その第一問(p26)から意味不明である。著者はシンクタンクによる『日本人の個人金融資産は、世界同時不況が始まった08年の1年間に110兆円減った』『逆資産効果で個人消費は冷え込むだろう』との予測を引用し、その論理がおかしいと指摘する。個人金融資産は円建てなら7%の減少だが、その間に円高が進んだ結果、ドルやユーロに換算すると資産価値は増えているのだから、むしろ資産効果で消費が増えてもおかしくない、という理屈である。

*注:「資産効果」とは金融資産の値上がりによって財布のひもが緩み、消費が刺激される効果を言い、「逆資産効果」はその逆に資産の値下がりで消費が冷え込む効果を言う。

しかし日本人は普段、国内で円で買い物をするのだから、なぜわざわざドルやユーロに換算した資産価値に基づいて消費行動を決めると考えるのか、まるで意味が分からない。例えば「円高によって輸入物価が下がった結果、日本国内の平均的な物価も資産価値の目減り以上に下落した、したがって実質ベースでは資産価値はむしろ上昇したのだから資産効果があるはず」、というのであれば分かる。ところが消費者物価は7%も下がっていないのだから、(これから海外に移住しようという特殊な人を除き)平均的な日本人にとっては資産の実質価値はやはり目減りしたのだ。だから逆資産効果で消費が減ると予想するのはごく自然なことである。

本書が指摘するように輸入や海外旅行は増えるかもしれないが、それは円高で外国の財・サービスが割安になるからであって、資産効果とは何の関係もない。(日本の消費者は円換算の旅行代金が安くなるから旅行に行きやすくなるのであって、「貯金額をドルに直してみたら去年より増えてる!去年よりお金持ちになった!」と言って旅行に行くような人間はいない。そもそも自分の貯金の外貨換算額を経年で把握している人などほとんどいないだろう。)


第二の問題は、経常収支に関するとらえ方である。著者は経常収支の黒字はすべからくよいことだと考えているふしがあるが、黒字それ自体は、国の経済にとってよいこととも悪いこととも言えない。好況期にも不況期にも、黒字は増え得るからである。たくさん生産してたくさん輸出する、というのが一般にイメージしやすい黒字の増加過程であろうが、国内消費が落ち込んだ結果、国内の生産が余って輸出が増えた場合にも、黒字は増える。
マクロ経済学の単純な恒等式に照らしていえば、
  Y = C + I + G + NX (Y:GDP C:消費 I:投資 G:政府支出 NX: Net Export=経常収支黒字/赤字)
で、Yが増えてNXが増えるのが好況期、CやIが減ってNXが増えるのが不況期である(Yは長期では一定という議論はここではおいておく)。

更に問題なことに、この後議論は、経常収支を国ごとに比べて、日本はスイス・フランス・イタリアに対して赤字であり、その中身は皮革製品や時計などの軽工業品やワイン・高級車などの輸入だから日本もこれに対抗せよ、と続く。ブランド力を高めよ、付加価値の高いビジネスに注力せよ、という結論自体はいいと思うが、その理屈付けが問題である。まずそもそも、お手本とされるフランスやイタリアは日本との関係だけみれば黒字だが、国全体としては経常赤字である。
著者は「日本からハイテク製品を買っていないわけではない。(中略)でも、彼らが買ってくれる日本のハイテク製品の代金よりも、日本が喜んで買っている向こうの軽工業製品の代金の方が高いので、日本が赤字になるのです」と解説するが、本当だろうか?軽工業製品にそんなに国際競争力があるというのなら、なぜフランスやイタリアはそれを世界中に売りまくって全体として経常黒字になっていないのか。

ここからは仮説であって数字で検証したわけではないが、フランスやイタリアは製造業の弱い国である。日本の強みは家電や自動車等の消費財だけでなく、電子部品や素材・工作機械等もあるので、製造業の弱い国に対しては輸出の余地が限られてしまうのではないだろうか。フランスやイタリアは、自国で作れない工業製品をどこかの国から輸入しなければならない(だから経常赤字になる)。日本からの直接の輸出はそれほど大きくないのかもしれないが、例えばアメリカやドイツ、中国から、日本の部材が使われている製品を輸入しているとしたら、日本はこれらの国を経由して間接的にフランス・イタリアに輸出しているとも言えるが、それは国際収支統計には表れてこない。そういうことまで考えたとき、日本がフランスやイタリアに対して本質的な意味で経常赤字なのかどうかは分からない。

上記は一つの仮説に過ぎないが、ポイントは、結局そういう複雑な経済の連鎖を全て捉えることは不可能なので、二国間の貿易赤字や黒字を云々することにはあまり意味が無い、ということである。本書では、ブランドバッグや高級車や時計や食品など身近な消費財ばかりを例に挙げて貿易構造が断定的に語られているが、著者は本当に数字を読んで検証したのだろうか?


第三に、生産性に関する考え方にも違和感があるが、ここはまだ整理しきれていないし、既にだいぶ長くなっているので、もう少し考えてから追記したいと思う。


そして最後に最も問題なのが、「デフレの正体」という本書のタイトルである。タイトルに「デフレ」とつけておきながら、本書がもっぱら分析しているのは(実質)経済成長率が低下する現象であって、日銀がこれだけベースマネーを大量に供給しているのになぜ物価が上がらないのか、といった貨幣的現象としてのデフレに関する考察はほぼ皆無と言ってよい。そもそも物価現象や金融を論じたいわけではなかったはずなのに、こともあろうか本の題名に「デフレ」と書いてしまったものだから、「人口が高齢化しているスウェーデンやイタリアや、人口減少を経験したロシアでデフレが起こっていない」といった批判を受けることになってしまった。「デフレ」を離れて実質経済に着目すれば、人口オーナスになれば実質経済成長率が低下するのは、広く見られる現象である。


。。といろいろ批判したが、著者自身が全国を歩き、多くのデータを独自に分析した本書は価値ある労作だと思うし、なるほど、と頷ける主張も多い。ただ、上記のようにメチャクチャな主張も山盛りなので、きちんと検証してからでないと何を信じていいやらよく分からないのが残念である(例えば本書は「高齢者はあまり消費しない」ということを当然の前提としているが、実は高齢者の消費額は高いことが指摘されている)。皮肉なことだが、「世間で言われていることを数字を確かめずに簡単に鵜呑みにするな」という著者の基本メッセージを実践し、何が正しくて何が間違っているかを自ら考える過程を通じて判断力・思考力を養ううえで、本書は格好の素材かもしれない。
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2011/09/06

社会の理性の後天性について - ローテンブルクにて

先日、ドイツ南部にあるローテンブルクというドイツにある小さな町を訪れた。城壁に囲まれた旧市街は半日歩けばすみずみまで見て回れるくらいの大きさで、その中に中世の街並みが見事に保存されている。黄色やピンク色に塗られた木組みの家がかわいらしい。ちなみに愛媛県の内子町と姉妹都市を結んでおり、当日は内子の物産展が開かれていた。

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さて、このローテンブルクには中世犯罪博物館なる施設があり、中世に拷問や刑罰に使われた道具が展示されている。
拷問は当時、容疑者を自白に追い込んで真相を解明するための、合法的な司法手続きの一つとみなされていたそうで、木製の針のついた椅子や指を挟んで締め上げる金具などの器具のほか、効果的な拷問について整理した教科書のようなものまで展示されていた。
もっとも人間にこうした残虐な一面があることは、ユダヤの迫害やポルポトの虐殺に関する展示などでも見てきたので、(真にリアルな実感を伴うかどうかは別にして)「まあこんなものだろう」と頭では受け取った。

それよりも今回新鮮だったのは、「辱めの刑」というカテゴリーに属する、より軽い刑罰の方である。
下の写真は刑罰の一つとして、村人が被らされた鉄製の仮面である。ブタを模した仮面はそれを被った者はブタみたいに野蛮だということを示しており、2つ目の仮面の大きな目と耳、口から出た長い舌は、これを被った者が何でも覗き見・盗み聞きし、何でもしゃべってしまう人だということを象徴している。軽犯罪を犯した人は、こうした仮面をかぶって見せしめにされ、嘲笑されたらしい。他にも、家の紋章を家畜の尻の穴に押しつけて汚すという罰があったという。

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「まるで小学生のイジメのように幼稚だな。。」というのが、第一感だった。好奇心や応報感情がむき出しで、現代社会に通底している理性や品性というものが感じられない。もちろん残虐な死刑や拷問も野蛮かもしれないが、その合理性は理解可能である。それに比べてこの「辱めの刑」は、あまりにも子供じみているように感じられる。

しかし考えてみれば、人間というものはもともとそういう生き物だったのかもしれない。子供はいつの時代も本能むき出しで欲望に忠実な存在である(それを美化して言えば純真無垢ということだろうが)。私たちは、デカルト以来の近代合理主義の伝統に根ざした教育によって科学的・論理的な思考様式を植えつけられることで、理性的な大人へと成長する。そうした基本的な理性は社会のすみずみにまで深く染み渡っているから普段意識することはないが、それは優れて人工的な営為の産物なのであって、人類が生まれつきに持っている性質ではないのだ。

話は変わるが、黒澤明の『七人の侍』を見たとき、何よりも印象的だったのは、動物的・非理性的な農民たちの姿だった。不意に奇声を挙げたり盗賊達におびえて闇雲に逃げ惑う農民たちは、七人の侍とは明らかに異質の野蛮な人々として描かれており、共感するどころか、自分との間に会話が成立することすらおよそ想像できないような存在に見えた。定評のあるカメラワークなどは、何がすごいのか私にはよく分からなかったが(黒澤の技術がマネされて、現代では一般化しすぎたからだとも言われるが)、農民を描いたリアリズムは衝撃的だった。

そうした理性以前の人間の姿をリアルにイメージしたとき初めて、近代ヨーロッパの啓蒙主義者達はどのような問題意識や理想を抱いて行動したのかとか、近代以前の社会において身分を超えた結婚が如何にあり得ないものだったか、ということの理解に近づけるのかもしれない。

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