2014/06/29

【読書】 量的・質的金融緩和 岩田一政・日本経済研究センター[編]



異次元緩和に関する諸論点を定量的に検証した本書の中で、とりわけ重要性が高いテーマはその副作用と出口戦略だろう。この点は、示唆に富む分析ではあるものの一番肝心なところの周辺をさらって終わった感があり、若干物足りなさが残る。

「出口で発生するコスト」について論じた4章では、主に2つの問題が指摘されている。

第一に、金利上昇局面で日銀が保有する長期国債が含み損を抱えるリスクがあり、IMFの試算をベースに弾いた金額は最大で30兆円を上回るとされる。ただし日銀は国債の満期保有を前提に、会計基準としては償却原価法を採用しているため、国債の時価が下落しても評価損を計上する事態になるわけではない(満期前に売却すれば売却損は発生する)。

第二に、日銀から国庫への納付金の額が減少する。
国庫納付金の金額は、日銀の「経常利益から特別損益、税金、法定準備金および配当金を除いたもの」なので、例えば上記の国債売却損などが発生すれば当然減少してしまうのだが、たとえ満期まで保有してそれを免れたとしても、損失が発生する経路がある。大量の長期国債購入により、日銀の利息収入は当面大幅に増えるが、バランスシートの右側には国債購入に伴って巨額の日銀当座預金が積み上がっている(要するに、日銀に国債を売ることで銀行が得た資金の大部分は、行き場がなくてそのまま日銀に預けっぱなしになっている)。
日銀は、法定準備を超える超過準備に対して利息を払っているのだが、異次元緩和が奏功して金融引き締め局面が訪れると(本書では2019年までに段階的に2.5ないし3.0%まで政策金利が上がる前提を置いている)、超過準備に対して支払う利息が増加する。日銀が保有する長期国債からの利息収入は変わらないので、支払いの急騰により日銀は大きな逆ざやを抱えることになるのである。本書の試算によれば、政策金利が3%に上がるシナリオでは2019年度からの4年間で合計2.26兆円の赤字が日銀に発生する。

こうしたリスクを踏まえて、日銀が将来、金融政策の選択肢を狭められないように、損失補填を含めた議論をしておくべきだというのが、第4章の結論となっている。

いずれも重要かつもっともな指摘ではあるのだが、これが異次元緩和の出口で発生する問題の核心を突いているかというと、よく分からない。

4年で2兆円超の損失は確かに巨額ではあるが、消費税1パーセント分の1年分程度であり、(財政状況が現状から大幅に悪化しない限り)政府がその気になれば十分に吸収可能な範囲であろう。
また、第一点目についても、含み損があるから日銀が長期国債を売却できないという事態は確かに望ましくないが、償還期間は(異次元緩和後に長期化したとはいえ)平均6年程度であるとすると、それを上回るペースで売却を進めて長期金利を積極的に引き上げるという事態は、どれほど現実的なのだろうか。仮にそれが必要になったとしても、最大30兆円の損失の何分の一かを何年かかけて処理するということであれば、やはり吸収可能であろう。
いずれもこれまでの常識からすると重大な財政問題となる額ではあるが、常識破りの異次元緩和の出口における最重要問題がこの程度のことで済むのであれば、クロダノミクスは大成功だったと迷わず結論づけられるだろう。

むしろより深刻なリスクは、それまで無理矢理押さえつけていた金利が急上昇して国債その他債券の価格が下落すると、時価会計を義務づけられている民間金融機関のバランスシートが大幅に毀損して金融システム不安が起こることであり、更には政府の利払い費が急騰し、それまでセカンダリー市場で最大の買い手だった日銀が不在となったマーケットにおいて、国債の安定消化が困難となり、財政危機をもたらすことであろう(それも考慮に入れると、上記の損失問題の深刻さは増す)。これらの問題を論じ始めるととても一章分では終わらないとは思うが、金融システムや財政に生じ得る国家的危機には殆ど触れずに日銀の庭先で発生する問題に終始した感のある4章は、個人的にはやや期待外れだった(3章では多少論じられている)。

なお3章で触れられている、日銀が様々な非伝統的金融政策を駆使して長期金利を押さえ込んでいる間に、政府は発行する国債の年限を長期化しているという点は重要な指摘だろう。日本の国債の平均償還年限は、99年の4年10ヶ月から、2013年度には7年11ヶ月にまで伸びている(他の先進国でも大体長期化する傾向がある)。償還年限が長期化すると、将来金利が上昇した際の政府の利払い費の膨張が緩やかになり、財政にとってはプラスだが、国債価格の下落による保有主体のバランスシートへの影響は逆に大きくなるだろうから、政府が危機のリスクを金融機関(郵貯や日銀も含め)に押し付けているだけのように思える。

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2014/06/27

【読書】 金融政策のフロンティア 国際的潮流と非伝統的政策 翁邦雄



現代の金融政策は教科的なマクロエコノミクスからは相当乖離しているので、その橋渡しを試みた本書は市場関係者にはありがたい解説書である。そもそもリーマンショックの以前から、教科書に登場する3つの金融政策ツール、すなわち①公開市場操作、②準備率操作、③公定歩合操作のうち、実際に使われているのは①だけだったのだが、リーマンショック後に各国の政策金利がゼロ近辺に低下する中で、様々な政策が試みられるようになる。すごく大雑把に二分すると、下記のようになるだろうか。

①金融システムの安定化を目指すもの
・FRBのCP購入ファシリティ創設等の直接の信用供与、GSE債購入等の「信用緩和」
・過度な流動性懸念や信用リスク懸念により毀損した市場機能の回復を企図し、主に金融危機直後に重点的に実施された

②短期金利のゼロ金利制約に直面する中で、長期金利の低下を目指すもの
・時間軸政策(日銀の政策継続に関する「コミットメント」やFRBの「フォワードガイダンス」)
・長期国債の購入やFRBのオペレーションツイスト

FRBの一連の緩和策はQE(Quantitative Easing、量的緩和)と俗称されて来たが、バーナンキや当時サンフランシスコ連銀の総裁だったイエレンは2008年に最初の緩和策を導入した当初からFRBの政策と日銀の量的緩和との違いを強調している(バーナンキ自身は、第一弾をCredit Easing/信用緩和と呼んだ)。FRBによる信用供与は一時的にフリーズしている市場機能の回復を企図したものであり、FRBのバランスシートの拡大は市中の金融機関がそのファシリティを利用するニーズに依存しており、したがってバランスシートのサイズ自体を政策目標にすることはなかったのである。

なお、日銀やBOEの量的緩和に関してはその狙いが複雑である。最も単純な解釈は、ベースマネーの拡大がマネーストックの拡大と物価上昇に繋がるというマネタリズム的ロジックに期待をかけたというものだが、量的緩和が導入された2001年当初から、こうした効果は疑問視されていたようである。BOEも、2009年導入当初は物価上昇の効果を期待していたふしがあるが、それが一向に現れてこないことを受けて徐々に看板を書き換えていった。

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2014/06/19

【読書】 新書アフリカ史 宮本正興+松田素二 編



先日ケニアのラム島付近でまたもアルシャバーブによるテロがあり、50名弱が殺害された。モンバサなど、エキゾチックなビーチリゾートとして人気を集めていたケニアのインド洋沿岸部は、テロの影響で観光客が既に激減しているようだが、今後も更に影響を受けそうだ。

モンバサ、マリンディ、ラム、それにソマリアのモガディシュなどは、いずれも古くから交易で栄えた海港都市だった。インド洋では、4月から9月にアフリカからインド・アラビア方面に向けて強い季節風が吹き、11月から3月は逆の風が吹く。この偏西風に乗って、10世紀頃にはアラブの商人がアフリカ東岸と活発な公益を行なっていた。アフリカからは象牙やサイの角、亀の甲羅、金、材木、スパイスなどの原材料、それに奴隷が輸出され、逆に北からは武器やガラス製品、葡萄酒などの製品が輸入された。
14世紀にモガディシュを訪れたイブン・バットゥータは、現在のソマリアの首都モガディシュを「大きな町でその住民は商人でたくさんのラクダをもっている」と記したとのこと。そのモガディシュは、長年の内戦で荒廃してしまった。戦闘で廃墟と化したモガディシュの街並みは、米軍とイスラム武装勢力との戦闘を描いた映画ブラックホーク・ダウンで伺い知ることができる。

東アフリカの沿岸部は、大航海時代以降ますます、特にスエズ運河が開通するまで、東西交易に重要な役割を果たした。最初にこの地を支配したのはポルトガル人で、1593年からモンバサにフォートジーザスを築き、東のマラッカ(1511年に占領)やマカオ(1556年開港)と繋いでインド洋貿易を席巻した。やがてポルトガルが衰退すると、なぜか東アフリカにはあまり進出しなかったオランダに代わってこの地を支配したのはオマーン。ザンジバルやモンバサのポルトガル人施設を度々襲撃し、1698年にはついにフォートジーザスを陥落させた。もともとペルシア湾を拠点にしていたオマーンだが、イギリスの勢力が拡大すると、モンバサやザンジバルに拠点を移して東アフリカ交易に活路を見出すようになっていった。この海港諸都市でアフリカとイスラムの文化・言語が交ざり合うことにより、スワヒリ語とスワヒリ文化が生まれ、それは今、東アフリカの多くの国での共通語となっている。

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スリランカ、コロンボから臨むインド洋
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2014/06/19

スコットランドの森と古城

風景が美しい国と言って思い浮かぶ国(地域)の一つ、スコットランド。緑の森と草原が続く大地と、その中に佇む古城がどこまでも美しい。

滞在中はご多分に漏れず曇りか雨が多かった。南仏やイタリアの海岸などを訪れて雨に降られるとだいぶ残念な気分になるが、スコットランドは雨の日も、否、雨の日こそ美しい。

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ドライブしていて、手付かずの自然以外に目に入るのは、ひたすら牧草地とそこで生きる羊や牛。畑はほとんど見られない。

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B&Bで出てくる朝食はいわゆるイングリッシュ・ブレックファーストで、ベーコンやソーセージなどの肉とパンが中心。あと豆とマッシュルーム。野菜はトマトだけ。

改めて、イギリス人は野菜を食わないんだろうかと思って調べてみると、一人あたり年間野菜消費量(2009年)は89kgと、対象64カ国の平均(? 132kg)を大幅に下回る(HelgiLibrary)。しかし欧州の農業大国フランスも93kgと大して変わらないのは意外。ちなみに日本は102kgで、やはり全体を下回っている。

その少ない消費量でもイギリスの野菜自給率は6割弱。やはり土壌が野菜の栽培にはあまり適していないのだろうか。ちなみに小麦の増産で全体の食料自給率は急回復したことが有名


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2014/06/16

【読書】 イギリス 繁栄のあとさき 川北稔



高校の世界史では、産業革命について大要、以下のように教わる(ふたむかし前は、少なくともそうだった)。
①イギリスは、紡績機や蒸気機関に代表される世界初の産業革命を経て『世界の工場』となり、その圧倒的な生産力を背景に世界帝国を築いた。
②そうした工場を保有できた産業資本家は富を蓄積して社会の新たなリーダーとなった。
③工場での仕事を求めて農村から都市に人口が流入したが、労働・居住環境は劣悪で、工場からの垂れ流しの排気・排水などによる深刻な環境汚染が発生した。

しかしこの時代のイギリスを「ジェントルマン資本主義」と位置づける最近の主流的見解では、こうしたストーリーはいずれも否定的ないし極めて限定的に捉えられている。即ち、
①イギリス経済は工業を最大のよりどころとしたことは一度もない。
②産業資本家層がイギリスの政治・社会をリードしたことも一度もない。影響力を持ったのは、19世紀半ばまでは伝統的な地主であり、それ以降はやはりジェントルマンとしての教養教育、価値観や生活様式を引き継いだシティの金融資本家・医師・弁護士、軍人、官僚などである。
③大都市にゴミ、犯罪、貧困等の問題は発生したが、当時の大都市は工業都市ではなかった。リヴァプールは港町だし、マンチェスターも工業都市というよりは商業都市であり、ロンドンは商業・金融の中心であった。そうした都市に人々が流入したのは、工場労働者を夢見てのことではなく、ひとつは「都会への憧れ」からであり、今ひとつはポーターや、花、果物、ミルク売りのような、農村には存在しない「都市雑業」を求めてのことだった、というのが本書が提示する説である。

ではイギリスが「世界の工場」でなかったとすると、何がイギリスの圧倒的優越性を可能としたのか。それは商業と金融である。
本書の基底をなす、ウォーラーステインが提唱した近代世界システム論によれば、「ヘゲモニーには、農業と鉱工業の生産、商業、金融の三つの次元があり、それらすべての次元で圧倒的優位を確立した状態が、本当のヘゲモニー国家」であり、「しかも、それぞれの優位は、この順に成立し、この順に崩れていく。」

イギリスがフランスとの(第二次)百年戦争に勝利した最大の理由は、イギリスの前のヘゲモニー国家オランダが築いた当時の金融センター、アムステルダムで多額の戦費を調達できたこととされる。17世紀末に「イングランド銀行を設立し、戦時国債を容易に発行しえたイギリスは、圧倒的に立ったのである。」(イギリス財政革命)18世紀の後期にはロンドンがアムステルダムから金融の中心としての地位を奪い、そして証券投資で財を成した人々が、新興のジェントルマンとしてイギリス資本主義の担い手となっていったのである。

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2014/06/02

ケニア旅行③:マサイマラで会える動物たち~その二

ディクディク/ Dik Dik
大きな瞳がかわいい。たいてい、茂みの中に隠れている。逃げる時にディクディク鳴くのだとか。
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トムソンガゼル/ Thomson's Gazelle
チータの次に足が速い動物で、軽やかに草原を疾走する姿はとても美しい。草を食む間、尻尾を左右にフリフリしている。通り過ぎるサファリカーをつぶらな瞳でじっと見つめて目で追ってくるのも、愛らしい。
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トピ/ Topi
足の配色からblue jeans yellow soxとも呼ばれる。目がとてもよく、岩に乗って遠くをよく見ている。
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ヌー/ Wildbeest/ Gnu
大群は今はセレンゲティの方に移動しているはずだが、マサイマラでも千頭以上はいそうな群れに出くわした。「ヌーヌー」鳴くからヌー。
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ブチハイエナ/ Spot Hyena
ヌーの群れの中をうろつき、時々追い払われながら執拗に子供のヌーを狙ってた。このしつこさがなんともハイエナらしい。
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セグロジャッカル/ Black-backed Jackal
ハイエナ同様、死肉をあさったり他の動物が狩った獲物を奪ったりする。
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↓動物の死骸にハイエナ、ジャッカル、コンドルが続々と群がり、取り合いをしている。
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ライオン/ Lion
2日目の夕方にようやく出会えた。産まれて1~2ヶ月くらいの赤ちゃんライオンたちがかわいい。昼間は基本的にゴロゴロ寝ている。
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この群れを率いているのはおそらくまだタテガミが生えそろってない若いオス。ひどいかっこうで寝てます。。
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別の場所で見つけたオス。足が傷だらけ。群れを追い出されたか、乗っ取りに失敗したのだろうか。。
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こちらは立派なオス。風格充分。
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2014/06/02

ケニア旅行②:マサイマラで会える動物たち~その一

マサイマラでは早朝と夕方の2回、ジープで動物を見に行き、あとはリゾートホテルでくつろぐか、マサイ村訪問などのオプショナルツアーに参加するというのがスタンダードな過ごし方。動物園で人気の動物が、だいたい見られる。

シマウマ/ Zebra
そこらじゅうにいるけど、しま模様はやっぱり美しい。
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このしま模様の理由には諸説ある(群れになると肉食獣の目を惑わす効果がある等)が、個人的にはこの人の説明が一番しっくりくる。それは発想を転換するもので、生存に有利だからシマウマがしま模様を発達させたと考えるのではなく、逆に他の多くの生物が白と黒を均一に混ぜ合わせた茶色を保護色となるように発達させたのに対し、シマウマはその機能を必要としなくなった、という説である。
シマウマはどう見てもサバンナで目立つし、他の草食動物がほとんど茶系なのにシマウマだけがあの模様で草原に紛れるというのは無理があり、あの縞模様は肉食獣からの保護とは関係ないように思う。しま模様は人間の指紋と同様に一つ一つの個体で異なっており、親子が群れの中で互いを識別するのにも役立っているとのこと。


マサイキリン/ Masai Giraffe
ナイロビから降り立った飛行場の近くにいきなりいた。身体の斑点がギザギザ模様なのがこのマサイキリンの特徴。ゆっくりのっそり歩いている。強烈なキックは一撃でライオンに致命傷を与えることも。
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カバ/ Hippopotamus
宿泊したロッジから見えるマラリバーに80頭くらいの群れをなしていた。夜に陸に上がって大量の草を食べるが、昼間はだいたい水辺でゴロゴロ寝ている。見かけによらず凶暴な性格で、人間を殺す獣害が最も多い動物としても有名。
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アフリカゾウ/ African Elephant
とても賢い動物で、仲間が死ぬとその亡骸を葉っぱで隠して集団で葬式のような仕草をすることでも有名。数年後もその場所を覚えていて、通ると立ち止まるのだとか。
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イボイノシシ/ Warthog
対照的に、間抜けな動物として紹介されていたカワイソウなヤツ。記憶力が悪く、逃げてきた道をもう一度通って肉食獣に捕まってしまうこともしばしばとか。首が短いため、前足をお行儀よく折りたたんで草を食む。ちょこまかと足を動かして歩く姿もかわいい。
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ハイラックス/ Hyrax
ロッジの敷地内でも見られる愛らしい動物。赤ちゃんを連れて散歩中。分類学的にはゾウの近縁なのだとか。
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2014/06/02

ケニア旅行①:治安と情勢

ナイロビは以前から強盗などの凶悪犯罪が多く、旅行者の間でも「世界で二番目に治安が悪い街」として悪名高かったが、近年はナイロビ市内や国境付近でのテロが頻発するようになった。特に2013年に起きたウェストゲートショッピングモール襲撃事件は67人が死亡、175人が負傷するという衝撃的なものだったが、今年5月に入ってからも、3日にモンバサ、4日と16日にナイロビで、爆弾テロ事件が相次ぎ、イギリス系の旅行会社がモンバサ方面に居た400人もの旅行者を退避させる事態となっていた。ナイロビ市内は危険がいっぱいなので、ほとんど出歩くつもりはなかったのだが、ムンバイのテロ事件のようにホテルが襲われた例もあるし、空港が標的にならないとも限らない。テロの影響で観光収入が激減するとの報道もあり、ケニア経済に効果的に打撃を与える目的で外国人をテロの標的にするかもしれない。無事に帰って来られてよかったが、本当に行くべきかは直前まで結構迷った。

ケニアで実行されるテロのほとんどを首謀しているのはソマリアのイスラム系武装勢力、アルシャバーブとされる。ソマリアは過去20年以上内戦が続き、政府がまともに機能していない。2007年頃に一旦、暫定政府がイスラム過激派を押さえ込んで治安を回復しかけたが、過激派の残党(主に若者)を中心に組織されたアルシャバーブが2008年頃から勢力を拡大し、主要都市を武力で制圧していった。
ケニアやエチオピアはキリスト教徒が多く、隣国でイスラム過激派の武装勢力が伸長することは看過できない。両国は、アルシャバーブ相手に苦戦を強いられているソマリアの暫定政府と連携し、アルシャバーブがケニア国内で活動する「国境無き医師団」のスペイン人スタッフを誘拐したことを契機に、2011年10月、ケニア軍がソマリア領内に侵攻して首都モガディシュ周辺などからアルシャバーブの勢力を撃退した。その報復として、アルシャバーブはケニア国内でのテロを繰り返すようになったのである。

当たり前だけど、来てみると現地の人は普通に生活を営んでいるし旅行者もたくさんいるのを見て、少し安心する。ホテルにはちゃんとゲートがあり、目つきの鋭いガードマンが車の裏もミラーで調べている。マサイマラは旅行者とマサイ族しかいないので、安全そのものだった。イギリス人にほとんど会わなかったのは、ニュースの通りテロを恐れて予定を変えた人が多かったのかもしれない。
ちなみにマサイマラにはアメリカ人観光客が本当に多かった。これまでアジアやヨーロッパを旅行していてもアメリカ人はそれほど見かけなかったが、アフリカに来てたのか。

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朝焼けに染まるナイロビ市内
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