2017/06/21

【読書】 Sapiens(サピエンス全史) Yuval Noah Harari ②



第三部:世界の統一(The Unification of Humankind)

・歴史を巨視的に見れば、世界は間違いなく統一に向かっている。幾多の民族や言語が滅亡する一方、世界は一つに繋がり、(言語や文化は違えど)様々な知識や尺度を共通の前提として共有するようになっている。膨大な数の人々を統合するには、共通の神話を信ずることが必要である。そして歴史上、人類の統合にとりわけ大きな役割を果たした「神話」が、「通貨」「帝国」「宗教」である。(9章)

・貨幣は、大した使い道が無いものの価値をみんなが信じるから価値が出る、という話。(10章)

・「帝国」や「帝国主義」には負のイメージが強いが、文明の発展と人類の統合を推し進めたのは、間違いなく帝国である。歴史において繰り返された「帝国」のパターンは、帝国が拡大するとともに辺境の異文化を組み込んでいく。最初は意に反して服従させられた異民族も、世代を下ると帝国に同化し、その文化や思考様式に馴染んでくる。そして異民族は、慣れ親しんだ帝国の論理に依拠して、帝国民としての地位の平等を求めて反乱を起こす。こうして支配民族はその圧倒的地位を失うが、帝国が根付かせた文化や社会様式はむしろ繁栄していく(11章)


宗教を論じた12章は第三部のクライマックスであり、興味深い。

・まずハラリは、宗教の定義として二つの条件を提示する。
1 人類の意図や合意を超えた超人間的な力の存在を信ずること
2 人々の行動を律する規範的な要素を含むこと

・狩猟採集時代にもアミニズムとしての原始宗教は存在したが、農業革命後の宗教は、豊作をもたらすための人間と神との約束としての色彩を強める。神々との約束は、その土地の環境に依存した特殊なものであった(日照りに悩まされる地域と、水害に悩まされる地域とでは、神との契約の内容も違ってくるという話)。やがて多くの文化を包摂する帝国が現れると、それらを矛盾なく取り込む多神教(ギリシャ神話のような)が発展してくる一方で、「神と契約できるのは人間だけ
という構図は人間を他の生物を超越した高い地位に押し上げることになる。

・ハラリはここで、「神との契約」という観点から、一神教と多神教の関係を論ずる。(多神教的世界観によれば)全知全能の神のような存在は、不偏であるはずで、その神と特定の人間集団が個別に契約を結んでその排他的な庇護を受けることは、元来無理がある。だから人々が契約を結べるのは、たくさんいる不完全な神々のうちの一人(または何人か)である(ヒンドゥー教で言えばGaneshaやLakshmiのような)。

・こうした世界観を持つ多神教は、本質的に寛容である。ローマ帝国はキリストを否定したわけではなかった。キリスト教徒が迫害されたのは、彼らがキリスト教を捨てなかったからではなく、ローマの神々への崇拝を拒否したからである。

・一神教自体はキリスト教以前にも存在したが、ユダヤ教のようなローカルな宗教に留まる限りにおいて、影響は限定的だった。しかしキリスト教は、「全人類の救済ために犠牲となったキリストの教えを万人に届けるべきだ」というユニバーサルな教義を構築し、積極的な布教活動に邁進したという意味で、極めて画期的だった。そのモデルはイスラム教に引き継がれ、今日では東アジアを除くほとんどの地域では一神教が支配的である。

・他方で、神の存在自体に関心を払わない宗教も存在する(仏教、ジャイナ教、道教、儒教など)。これらが共通して重視するのは、神の意志ではなく、自然の摂理である、とハラリは説く。仏教の本質は、あらゆる煩悩から解放されて悟りの境地に達することにあり、神との約束を果たすことによる救済を願う一神教・多神教とは本質的に異なる。ハラリは仏教の起源と考え方についてかなりの紙幅を割いて丁寧に説明しているが、それは「神のいない宗教」という多くの欧米人に馴染のない概念を理解させることで、次に彼が展開する話への橋渡しの役を果たしている。

・彼は続けて、キリスト教や仏教と同様に、例えば「社会主義」のような社会思想も「宗教」である、と主張する。そこで冒頭の二要件に立ち返る。確かに社会主義は、①資本主義から社会主義への移行は人間の意志を超えた歴史の必然であると主張し、②集団生産に資するための多くの規範を主張した。その後ハラリは、社会進化論からナチスの優生学が生まれていった経緯へと話を展開させていく。

この社会思想(イデオロギー)と宗教との境界が実はグレーだという指摘自体は以前議論したことがあったが、「神のいない宗教」という仲介を経て整理してみると、なかなか説得力がある。現代においてある社会思想を推進する人は、客観的な根拠とエビデンスによって自説を強化するのが常であり、その思想があたかも主観的な信仰であるかのように「宗教」と呼ばれることは不本意であろう。ハラリの透徹した眼差しは、「そうした思い込みを相対化してみるべきではないか。あのナチスの優生学ですら、科学的根拠と学術的理論に支えられていたのだ」と訴えている。

非寛容な宗教(キリスト教、イスラム教、社会主義)は、人々を統合する一方で、多数の争いと悲惨な流血をもたらした。私見によれば、宗教とは人智を超えた存在を人間が解釈する営みである。神の意志なるものが存在するとして、それはまさに人間の理解を超えているはずである。だから、ある解釈を信ずるのは個人の自由だが、神の意思を自分(の信ずる宗派や預言者)のみが完璧に正しく理解し、他はすべからく間違っていると思いこむのは人間にあるまじき不遜な精神態度だと思うのだが、敬虔な信者にとってはそういうものでもないのだろうな。

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