2009/01/21

オバマ大統領の就任演説-民主主義という理想

美しい就任演説だった。

アメリカは未曾有の正念場を向かえているが、建国の精神に立ち返り、国民一人ひとりが未来を信じて頑張れば、アメリカは数々の課題を解決し、再び世界をリードする国になれる。そんなメッセージだった。

「アメリカの国力の減退は避けられないという懸念」を現実のものとして認めつつ(これをこんなに正面から認めた就任演説があっただろうか)、それに立ち向かう勇気を鼓舞する。我々、そして我々の祖先がこれまでも苦難を乗り越えてきた、だから我々もできるはずだ、と。過去の演説 ― 「黒人も白人も、リベラルも保守もなく、ただUnited States of Americaがあるのみ」や「Yes We Can」というキャッチフレーズなど ― にみられた、ある種の「軽さ」はなくなり、地に足をつけた覚悟が伝わってくる。

これだけの多くの難題に直面しながら、アメリカの空気は明るい。逆境をパワーに変えられる政治のリーダーシップが、少しうらやましくも思える。この国には、国民が政治を信頼し、政治家も国民を信じるという、信頼関係が感じられる。だから、格調高いまっすぐな演説が出てくるし、それが人々の心を打つ。

翻って日本は、政権交代前夜と言われているのに、高揚感がまるでない。むしろオバマの方が注目されているくらいではないだろうか。自国の政権交代よりも外国のそれに期待するほど、日本の政治は国民から見放されてしまった。
国民は政治を信頼していないし、政府・政治家も国民の判断力を信頼していない。政府は、国民は結局要求するばかりで義務を引き受ける気が無いと思っている。国民は、負担を国民に押し付ける前に権力者が襟を正すのが先だと思っている。そこにすれ違いがあり、かみ合わないことが分かっているから、政治家は問題の本質を語らない。だから腰が引けていて、何を言ってもどこか白々しい。少子高齢化、財政赤字、雇用のあり方、変化する国際情勢等、様々な課題が指摘されて久しいが、相互不信が本質的な議論を妨げ、場当たり的な対処に奔走するうちに時間が空費されていく。

もちろんアメリカにも汚職などの問題はたくさんある。個々の政治家、あるいは「政治家一般」へのは信頼は、日本よりは高いと思うが、絶対ではない。日本と決定的に違うのは、「民主主義」という理想に対する強固な信念があることだ。
日本にはこれがない。誰がやっても、何が起こっても、政治が世の中をよくできるとは思えない。政治が問題を解決するどころか、政治こそが問題なのだ。政治などには何も期待できない。そんな諦観がある。

アメリカは、人工的な国家だ。国家は昔からそこにあったのではなく、何も無いところに作りあげ、戦争を通じて独立を勝ち取ったものだ。1776年に産声をあげたアメリカ合衆国は、世界中どこでも君主と貴族が偉かった時代にあって、世界で唯一、自由な市民が自分達の手で作り上げた、真に革命的な国家だった(インディアンと黒人奴隷の多大な犠牲を踏み台にしていたが)。
そしていつ分裂・瓦解するとも知れない人造国家だったからこそ、アメリカは常にこの「自由で民主的な理想の国」という理念を確認し、その旗印の下に国民を束ねてきた。だからアメリカには、政治とは、国家とは、市民とは、民主主義とは何か、ということに関する、強固な信念、あるいは「信仰」がある。

やや話はそれるが、アメリカ人は、世界的にも異例なほどに、国旗と国歌を愛する人々である。街のいたるところで、政府の建物などではなく普通の会社のビルに星条旗がはためき、大きなイベントでは必ず国歌が流れる。

それは、アメリカという国を作り、支えてきたというプライドに裏打ちされているのだと思う。アメリカ人にとっての愛国心は、「自分が生まれた、何となく一番居心地のいい国」という程度の感覚ではない。それは、「世界で最も素晴らしい自由な社会、世界の自由を護る大国たるアメリカ合衆国。その国づくりの一翼を自分も担ってきた」という自負なのである。その思いとそれを支える理念を、独立戦争、南北戦争をはじめとする多くのチャレンジを通じて陶冶し、それを、選挙や記念式典などの様々な場で繰り返し語り、国民自身が自らの記憶に刻んできた。

個々に見れば、インディアンの迫害や、奴隷制と人種差別、ベトナム戦争、イラク戦争など、いまや多くの国民が誤りだと思っていることも行ってきた。しかし政治や社会の過ちを正すのもまた民主主義である。過ちを正してきたことは、誰に強制されたわけでもなく、民主主義のストラグルを通じてアメリカ国民一人ひとりが達成した成果である。だから民主主義が生きている限り、今度の危機もきっと乗り越えられる。それを信じて社会にコミットすることが、アメリカ市民の義務であり誇りなのだ。

外国人である私達から見ればだいぶ勘違いな面もあるが、民主主義へのこうした信頼・信仰があるからこその、国旗・国歌への愛着なのだと思う。

日本では最近も、国旗掲揚・国歌斉唱の強制が時々話題になるが、こうした表面的な行動を強制しても愛国心が育まれないのは当然だろう。愛国心の礎は政治と国民との信頼であり、国民の政治への参加意識なのだと思う。これについて日本がアメリカをマネすべきだとは思わないが。

最近日本では過度なアメリカ追従を戒める論調が主流のようだが、もとより日本とアメリカは国家の成り立ちや社会の構造など、何から何まで正反対と言っていいくらい全く違うと思う。アメリカのこの政治風土は、人造国家に特有の、世界でもかなり異例のものだ。だからアメリカはあまり参考にならないし、何かを接木するときはよほど慎重にやらなければならないと思う。日本は日本の道を見つけなければならない。

そのためには一体どこから手をつけたらいいのか、分からないし、きっと道のりは長いと思うが、自分はその課題に取り組みたくて、この道を選んだのだということを、改めて思い出した。
日本人として、がんばろう。


(参考)
スピーチ全文:http://www.cnn.com/2009/POLITICS/01/20/obama.politics/index.html
スピーチ映像:http://www.cnn.com/2009/POLITICS/01/20/obama.politics/index.html#cnnSTCVideo

DSCF1324.jpg
写真:ニューヨーク五番街にひるがえる多数の星条旗(2009年1月。何でも無い平日です)

政治 | Comments(2) | Trackback(0)
Comment
こんにちは。

アメリカの愛国心と日本人の「国旗・国歌」に対する態度って対照的ですよね。ただ、最近のアメリカ人のアメ車に対する不信感を見ていると、なんとなく自虐的ともとれる言動が、日本の国歌や政治に対する腰の弾け方、信頼のなさに似てなくもないな、という気がしています。

うちも会社のエントランス前に星条旗と州旗と社旗が並んでます。風に吹かれて、水分が凍って、段々とぼろぼろになったら代えるんですが、私も含めて同僚の日本人はアメリカの正しい星条旗の扱い方なんて知らないので、思わず地面に直置きしそうになって、「小学生だってそんなことしちゃいけないって知ってるわよ!」とおこられます。未だにちゃんと三角に畳めなかったり・・・。
ありがとうございます。

たしかにアメリカ人は車にはすっかり自信を失くしましたね。無理もないというか、仕方ないという感じですが。

話は変わりますが、かつてオリンピックでメダルを獲った日本の若い選手が、表彰台での国旗掲揚の際に帽子を取らず、ちょっとしたバッシングを受けていました。でもこういう作法って、国際常識なのかもしれませんが、日本で普通に暮らしてたら知らないですよね。

管理者のみに表示