2010/01/16

【読書】日本辺境論 内田樹



「日本人は辺境人である、ならば「普通の国」など目指さずに、辺境人としてのユニークな個性を活かしてやっていこう」という、ちょっとシニカルで、ある意味前向きな日本人論。

著者自身が始めから宣言しているように、辺境人である、というテーゼには何ら新味はない。要約すれば、常に中華帝国の「辺境」にあった日本は、外国から進んだものを取り入れてキャッチアップすることを得意とするが、新しい世界像や哲学などを自ら構築することは苦手である、といったところになろう。なんとも陳腐である。
しかし本書は面白い。面白いのは、第一に例証が鋭く小気味良いからであり、第二にその先の考察がなかなか深いからである。

本書によれば、「自国文化論の類の書物がこれほど大量に書かれ、読まれている国は例外的」である。それは、私たちがどこかにある本当の日本人の原点や祖形を知らないからではなく、「日本文化とは何か」というエンドレスの問いこそが日本文化だからである。丸山眞男の言葉によれば、たえず「きょろきょろして新しいものを外なる世界に求める」のが日本人だから、ということになる。

ヨーロッパでは、「社会の根源的な変化が必要とされるとき、最初に登場するのはまだ誰も実現したことのないようなタイプの理想社会を今ここで実現しようとする強靭な意志をもった人々」である。一方、日本の政治リーダーや知識人は、常に正しい解を海外に求めてきた。日本人は、『私が世界標準を設定するので、諸国民もまたこれに従っていただきたい』とは決して言わないのである。

「私の決めたルールが他のルールを退けて多数派の同意を得れば、それが世界標準になるのが『英米式』なんです。『みんなが英米式でやっているから英米式でやりましょう』というのは『日本式』なんです。」
なかなか言いえて妙ではないか。


ここまでは、よく言われていることを面白く言い直した感が強いが、ここから先は結構新しいと思う。

日本人は、辺境であることを逆手にとって、知らないふり、あるいは知らないと思い込むことを覚えた。

「知らないふり」は外交面で発揮される。例えばアメリカの核の傘の下で、当初は戦勝国から押し付けられた平和主義を我が物のように振りかざして、経済成長に邁進することを可能にしたという(ここはもう少し詳細に議論を展開してほしかったと思う)。

「知らないと思い込むこと」は、効率のよい学びを可能にした。日本の求道における師弟関係には、弟子にはこれから学ぶことの価値が分からない、という前提がある。弟子が最初にやらされるのは便所掃除や雑巾がけであり、最初は疑問を持ちながらも一生懸命繰り返しているうちに、何かが見えてくる。
それこそが学びの本質である、と著者は言う。確かに、日本では子供向けのマンガに至るまで、弟子が意味も分からず師について修業に励むと、知らぬ間に実力がついている、といったエピソードは、枚挙に暇が無い(例えば、亀仙人の下での悟空とクリリンの修業や、スラムダンクの桜木花道など。最近は減っているのではないかという気もするが)。

一方英米式では、教える側が教えるものの価値を説得しなければならない。教わる側は、それに基づいて、教わる前に教わる内容やその価値を知った上で、教わるか否かを選択するのである。このような教育観、「学び」観の違いは、日米双方の大学に通ってみて、私自身も強く実感した。
私は著者ほど手放しでこの盲目的な学びを肯定できないが、それは私が未熟だから世の中が見えていないのかもしれない、などと思ったりもする。それこそが、弟子のメンタリティなのであろう。

というわけでこの「学び」のくだりはとても面白かったのだが、それが、常に中華から学んできた辺境人ゆえの、日本独自の姿勢である、という著者の論理にはやや無理を感じる。日米を比べれば確かに上記の様な違いは鮮明だが、では中国の学びはどうかと問えば、それは英米よりも日本に近いのではないだろうか。そもそも、「学び」の例として著者自身が本書で引用している例は『張良』という中国にまつわる能楽である。日本人が辺境人であるが故に上述の「学び方」を体得したというのであれば、それが中国人にも共通しているのはおかしいのではないか?単に洋の東西の違いなのでは?と疑問が沸いてしまう。
「学び方」は日本人の強みとして本書で強調されているピースなので、それと「辺境人」との関係が十分に論証されていないのは、かなり重大な欠陥に思える。

まあ、ともあれ後半は仏教や言語論など様々な話題が展開されていき、最後まで面白い本である。水戸黄門やマンガ脳(これは養老猛司の受け売りらしい)などの解釈も、新鮮だった。
読書 | Comments(0) | Trackback(0)
Comment

管理者のみに表示