2011/09/06

社会の理性の後天性について - ローテンブルクにて

先日、ドイツ南部にあるローテンブルクというドイツにある小さな町を訪れた。城壁に囲まれた旧市街は半日歩けばすみずみまで見て回れるくらいの大きさで、その中に中世の街並みが見事に保存されている。黄色やピンク色に塗られた木組みの家がかわいらしい。ちなみに愛媛県の内子町と姉妹都市を結んでおり、当日は内子の物産展が開かれていた。

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さて、このローテンブルクには中世犯罪博物館なる施設があり、中世に拷問や刑罰に使われた道具が展示されている。
拷問は当時、容疑者を自白に追い込んで真相を解明するための、合法的な司法手続きの一つとみなされていたそうで、木製の針のついた椅子や指を挟んで締め上げる金具などの器具のほか、効果的な拷問について整理した教科書のようなものまで展示されていた。
もっとも人間にこうした残虐な一面があることは、ユダヤの迫害やポルポトの虐殺に関する展示などでも見てきたので、(真にリアルな実感を伴うかどうかは別にして)「まあこんなものだろう」と頭では受け取った。

それよりも今回新鮮だったのは、「辱めの刑」というカテゴリーに属する、より軽い刑罰の方である。
下の写真は刑罰の一つとして、村人が被らされた鉄製の仮面である。ブタを模した仮面はそれを被った者はブタみたいに野蛮だということを示しており、2つ目の仮面の大きな目と耳、口から出た長い舌は、これを被った者が何でも覗き見・盗み聞きし、何でもしゃべってしまう人だということを象徴している。軽犯罪を犯した人は、こうした仮面をかぶって見せしめにされ、嘲笑されたらしい。他にも、家の紋章を家畜の尻の穴に押しつけて汚すという罰があったという。

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「まるで小学生のイジメのように幼稚だな。。」というのが、第一感だった。好奇心や応報感情がむき出しで、現代社会に通底している理性や品性というものが感じられない。もちろん残虐な死刑や拷問も野蛮かもしれないが、その合理性は理解可能である。それに比べてこの「辱めの刑」は、あまりにも子供じみているように感じられる。

しかし考えてみれば、人間というものはもともとそういう生き物だったのかもしれない。子供はいつの時代も本能むき出しで欲望に忠実な存在である(それを美化して言えば純真無垢ということだろうが)。私たちは、デカルト以来の近代合理主義の伝統に根ざした教育によって科学的・論理的な思考様式を植えつけられることで、理性的な大人へと成長する。そうした基本的な理性は社会のすみずみにまで深く染み渡っているから普段意識することはないが、それは優れて人工的な営為の産物なのであって、人類が生まれつきに持っている性質ではないのだ。

話は変わるが、黒澤明の『七人の侍』を見たとき、何よりも印象的だったのは、動物的・非理性的な農民たちの姿だった。不意に奇声を挙げたり盗賊達におびえて闇雲に逃げ惑う農民たちは、七人の侍とは明らかに異質の野蛮な人々として描かれており、共感するどころか、自分との間に会話が成立することすらおよそ想像できないような存在に見えた。定評のあるカメラワークなどは、何がすごいのか私にはよく分からなかったが(黒澤の技術がマネされて、現代では一般化しすぎたからだとも言われるが)、農民を描いたリアリズムは衝撃的だった。

そうした理性以前の人間の姿をリアルにイメージしたとき初めて、近代ヨーロッパの啓蒙主義者達はどのような問題意識や理想を抱いて行動したのかとか、近代以前の社会において身分を超えた結婚が如何にあり得ないものだったか、ということの理解に近づけるのかもしれない。

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