2011/11/25

【読書】 ドキュメント東京電力 ― 福島原発誕生の内幕 田原総一郎




こんにち電力業界と政府(経産省)はべったり癒着していると批判されているが、1980年に書かれた本書では、両者がむしろ長きに亘って熾烈な争いを繰り広げてきた歴史が明らかにされている。いま問題視されているエネルギー政策や原発推進、「やらせ」の舞台となった住民との対話などの源流を知る上で貴重な資料である。


国と電力会社との最初の闘争は電力の国家統制を巡って起こった。明治時代に興った電力産業は基本的に民間中心だったが、大恐慌を経て軍の暴走が深刻化し、統制が強まる中、電力も国家の管理下において安定・安価な供給を確保すべきだという議論が起こる。電力会社と政党政治家は猛反発したが、結局は軍の影響力が強まる大勢に押されて1938年の議会で電力国管法が成立し、翌39年に民間の電力会社は全て日本発送電(日発)という国策会社に統合されてしまった。同じ議会で国家総動員法も制定されており、要するに電力国管化はいわゆる1940年体制完成の一環だったと言える。

ところが官僚主導の日発は停電が頻発するなどの問題が続出して失敗続きとなり、国家総動員体制で無謀な戦争に突き進んだことへの反省と相まって、民間電力会社の間に深い悔恨を刻み込むことになる。戦後、国管化で苦心惨憺を舐めた民間電力会社出身の松永安左エ門と木川田一隆は、財閥解体などの日本弱体化を進めるGHQを抱き込んで、日本発送電の解体と現在まで続く九電力体制を強引に実現する。1951年のことである。ちなみに、解体された日発が大野伴睦をたてて巻き返して設立させたのが電源開発(現J Power)である。

日発解体を許した通産省が再び電力会社を組み敷く契機と捉えたのが、原発だった。技術的に未成熟で巨額の研究開発・設備投資が必要で、リスクもある原子力発電こそは、国家が受け皿となって行うのが相応しい。これは河野一郎と正力松太郎という大物政治家を巻き込んだ争いになるが、正力の執念と電力会社の献金で民間派が押しきり、日本原子力電源という8割民間・2割政府出資の特別会社が担うことになった。

更に、電力国管下を恐れた電力会社は1960年代に相次いで原子炉を自前でアメリカから導入してしまう。これは原子炉国産化への道を狭めるものだったが、それだけ電力会社の危機感が強かったのだ。こうして電力会社は、政界からも官界からもUntouchableな産業帝国を作り上げる(1975年度時点での通産官僚の天下りは、石油会社43人に対して電力会社は8人)。

ところが第一次石油危機の前後から雲行きが変わり、原子力船むつの漂流事故や度重なる事故で原発の安全性に疑問符が付き、全国で反対運動が巻き起こった。これに苦慮した田中角栄政権は1974年に電源三法を制定し、発電所周辺地域への経済支援が強化された。福島第一原発のある福島県双葉郡大熊町は、これを機に県内で最も貧しい町から最も豊かな町へと変貌したという。その財源は電力会社への課税で成り立っており、課税と交付金を掌握することは通産省の巻き返しという側面もあった。
また、同じ1974年には、政界と電力業界の癒着への批判が強まったのを受けて木川田社長が企業献金の廃止を発表していたが、実は個人献金に姿を変えただけだった可能性が指摘がされている*。

また、この頃から、現在の「やらせ」問題につながる電力会社による地域社会へのPR・情報戦、マスコミ広告が格段に強化され、政府の広報予算も急増していく。1975-76年には、年間の広報予算は九電力と電事連で40億円、政府が20億円の合計60億円にも上った。原発反対の機運は、やがて下火になっていく。その後通産省と電力会社は強調路線を歩み始める。


*出所:共同通信

自民個人献金、72%が電力業界 09年、役員の90%超 

 自民党の政治資金団体「国民政治協会」本部の2009年分政治資金収支報告書で、個人献金2 件額の72・5%が東京電力など電力9社の当時の役員・OBらによることが22日、共同通信の調べで分かった。当時の役員の92・2%が献金していた実態も判明した。電力業界は1974年に政財界癒着の批判を受け、企業献金の廃止を表明。役員個人の献金は政治資金規正法上、問題ないが、個人献金2 件として会社ぐるみの「組織献金」との指摘が出ている。福島第1原発事故を受け、原子力政策を推進してきた独占の公益企業と政治の関係が厳しく問われそうだ。

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