2017/06/20

【読書】 Sapiens(サピエンス全史) Yuval Noah Harari ①



著者は『銃・病原菌・鉄』に影響を受けたという歴史学者。人類史という壮大な物語を、鋭い切り口と軽妙な筆致で解き明かした書である。あらゆるものを相対化する著者の自由な視座には、イスラエル人でありながら仏教的な瞑想を実践し、ゲイであり、ヴィーガンでもあるという彼の多様なバックグラウンドも一役買っているのだろう。著者はそうした見られ方(ステレオタイプから外れている、というステレオタイプ)を好まないのだろうが。


第一部:認知革命(Cognitive Revolution)

・まず人類は如何にして、単なる猿の一亜種から、地球の生態系史上例を見ない圧倒的な地位を占めるに至ったのか。

・人類の勃興期、地球上にはホモサピエンス以外にも複数の「人類」が存在した。例えばネアンデルタール人は、現代人よりも大きな脳を持ち、火を操る術も知っていた。

・にも関わらず、ホモサピエンスはネアンデルタール人を含む他の人類を圧倒し、これらを絶滅に追いやったのである(直接的に殺戮したにせよ、縄張りの収奪によって間接的に死に追いやったにせよ)

・ハラリによれば、ホモサピエンスと他の人類の最大の違いは、共通の神話を信ずる力であり、それこそが「認知革命」の成果である。共通の神話を信じたサピエンスには、それまでにない規模での集団行動が可能になり、数の力でネアンデルタール人等を圧倒したのである
ネアンデルタール人も死者の埋葬は行っていたので、「神話的なもの」を全く持っていなかったわけではなさそうだが、この点は特に説明されていない。

・もう一つの大きな効果は、神話は常に書き換え可能だったということである。環境変化等によってある神話が生存に適さなくなったとき、別の神話がこれに取って代わり、これを信じたグループが繁栄することで、サピエンスは不断の「進化」を遂げることができた。その進化の速度はあまりにも速く、遺伝子の突然変異を待たなければならない他の生物は、これに付いていくことができなかった

・こうして圧倒的なスピードで生態系の頂点に駆け上がったサピエンスは、地球上に多くの爪痕を残すことになる。人類が地球環境に甚大な影響を与えるようになったのは、いつからだろう?産業革命以降の環境破壊が最初ではない。農業革命期でもない。既に狩猟採集時代に、生態系の頂点に立った人類は、多数の大型哺乳類をはじめとする夥しい数の生物を絶滅に追いやったと推定される。明確な物証は乏しいが、人類がオセアニアやアメリカ大陸、大洋中の離島に到達した時期と、これらの地域で多数の生物が絶滅した時期が驚くほど一致するという多数の状況証拠を挙げ、絶滅の犯人はホモサピエンスと考えざるを得ないとハラリは主張する。


第二部:農業革命(Agricultural Revolution)

・History’s Biggest Fraud(史上最大の詐欺)と題された第5章は、本書でもっともエキサイティングな章の一つだろう。

・人類は常に進化してきたと思っている私たちは、農業革命に以下のようなイメージを抱きがちだ ― 農耕によって人類は、明日をも知れぬ狩りを続けながら木の実をほじくる生活から解放され、肥沃な土地に定住して豊かな生活(少なくとも狩猟採集よりはずっとマシなそれ)を謳歌したと。だがこれが詐欺だとハラリは指摘する。

・農耕によって労働時間は増加し※、開墾や水やり等の重労働で人類は足腰を痛め、食生活が少数の穀物に偏ったことで栄養状態が悪化し、家畜は様々な伝染病をもたらし、(単一/少数の作物に依存しているが故に)飢饉に見舞われることも増えた。結局、狩猟採集時代に比べて、人類の体躯は小さく、寿命は短くなった。農耕によって、人々のQOLはむしろ大幅に低下したのである。(人類は何十万年・何百万年かけて、狩猟採集を行う雑食生物へと進化してきた。単一の穀物ばかりを食べて単純農作業を繰り返すようにはできていないのだ)
※今日カラハリ砂漠で狩猟採集生活を送るは人々の労働時間は週35~45時間程度で、現代人が独占した肥沃な土地に住んでいた古代の狩猟採集民族の労働時間はもっと少なかったはずと、ハラリは推定する

・確かによく知られるように、農業革命によって人口は増えた。しかしそれは、人々が豊かになったからではなく、定住によって子作りが容易になり出生数が激増したからだという。人口増加によって、一人当たりの栄養は減少し、穀物依存と乳離れの早期化は、むしろ乳児死亡率を高めたが、それを上回るペースで出生数が増えたのである。

・進化の過程を生き残るのは、結局のところ、高いQOLを謳歌した者ではなく、遺伝子のコピーをたくさん残した者である。だから、QOLの低い農耕民族が世界を席巻したのだと、ハラリは言う。

・視点を変えて、小麦の遺伝子の立場に立って見れば、人類は彼らの圧倒的繁栄のために働く奴隷である。人類が穀物を飼いならした(domesticate)のではなく、穀物が人類を飼いならしたのだ(domesticateはラテン語のdomus = 家から来ている。家に住まわされるように仕向けられたのは、小麦ではなく人類である)。

・それは決して、古代の人々が意図した結果ではなかった。狩猟採集の生活に、少しだけ多くの小麦が加えれば、生活はこれまでよりいくらか豊かになるはずだった。最初は、一時的なキャンプ地の周辺に、少しばかり種を撒いてみただけだった。だが、水やりや雑草取りなどの手間をかければ収穫量は増え、収穫量が増えるにつれて人々は小麦に依存するようになる。気が付いた時には、定住して子供が増え、狩猟採集生活に必要な膨大な自然の知識は失われ、最早戻れなくなっていた。それは、人類が繰り返してきた歴史の常でもある(携帯電話やEメールは通信の手間と時間を劇的に減らすはずだったが、人々の生活は楽になっただろうか?)

これに続く3章は、さほど切れ味が鋭くない(最後の男女格差の議論は面白いが)。

・農耕によって人類は、(作物の豊作・不作を左右する)環境の未来をより気にするようになり、かつ環境に多少なりとも影響を与えられるようになった。治水等には莫大な人員の動員必要となり、これを可能にしたのが神話による結び付きである(6章)

・農耕により社会が拡大すると、収穫量や徴税を記録するためのdescriptive deviceが発達した。(7章)

・更に農耕は社会階層を生み出し、後につながる様々な格差の萌芽が生まれていった。あらゆる格差は、当初は歴史の偶然の産物だが、機会の格差は結果としての能力の格差を生み、格差を再生産して社会を固定化して行く。

・唯一の例外が、男女間の格差である。古今東西、なぜ男が優越する社会が世界に共通して見られたのか。その理由は「分からない」とハラリは言う。一つの進化論的仮説は、女性は出産前後に保護を必要とするため、従属的な性質を獲得した(挑戦的な女性は、進化の過程を生き残れなかった)というものである。しかし助けを必要とするからといって、男を頼る必要はない。ゾウのように、メス同士で群れを作って助け合う動物はたくさんいる。なぜ女同士が助け合い、身勝手で暴力的な男たちを排除するような社会を、人類は作らなかったのか。答えは未だ見つからない。(以上、8章)

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2017/03/28

稀勢の里の「土俵際に賭けた」は周到な作戦

手負いの稀勢の里による逆転優勝は、多くの日本人の心を揺さぶった。本割の立ち合いで変化された照ノ富士は、自身も膝の古傷を抱える中で、14日目の琴奨菊戦で変化したことを責められたこともあって、心中複雑なようだが(「見えるつらさと見えないつらさ」というコメントに、それがにじんでいる)。

本割の変化は作戦だが、優勝決定戦は流れの中でとっさに出た奇跡の逆転、と解釈されているが、実は決定戦にこそ、乾坤一擲の作戦が隠されていたのではないかという気がする。彼はインタビューで「土俵際に賭けた」と語った。それは、初めから土俵際に賭けていた、と言っているように、私には聞こえた。

左が使えない稀勢の里が、寄り切りや押し出しで勝つことはあり得ない。勝つためには、右手で投げを打つしかない。問題は、いかにしてその態勢に持ち込むかだ。

一つは解説で舞の海氏が言っていたように、右に変わって上手を取り、周りながら振り回す。日馬富士がよくやるような立ち合いだ。これは本割のメインシナリオだったと思うが、立ち合いが不成立になって目論見が崩れた。仕切り直しになることも念頭になかったわけではないと思うが、左に変わった後、流れの中で右突き落としが決まったのは、ほとんどまぐれなのではないかと思う。

しかしとにかく勝利をもぎ取り、優勝決定戦に持ち込んだ。次は同じ手は使えない。そこでもう一つの作戦に出た。それが、敢えて相手を懐に入らせ、その出足を利用して引きながら小手投げを打つというものだったのではないか。豪栄道なら首投げを打つところだろうが、稀勢の里は小手投げだった。

更に想像をたくましくしてみると、実は前日、簡単に両差しを許して寄り切られた鶴竜戦でも、同じ作戦を描いていたのではなかろうか。しかしまともに引っ張り込み過ぎて、あっさり寄り切られてしまった。
そこで照ノ富士との決定戦では、右手で相手の胸を突いて出足を止めるアレンジを加えた。これが当たった。

イチかバチかのこの作戦が成功する可能性も相当低かったとは思うが、勝つとしたらこれしかなかった。手負いとは言え、13勝を挙げ、優勝に向け気合十分の照ノ富士に、無策で臨んでは勝てまい。

いろいろな感慨を与えてくれる、稀勢の里の15日間だった。

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2016/08/12

国の借金は将来世代へのツケ回しなのか?①

少し前のことになるが、江田憲司衆議院議員が、「国の借金は将来世代へのツケ回しではない」という持論を力説されていた。

目からウロコの財政学講座①・・・「増税先送りは無責任」と言う人へ

 国債は、子や孫たちへの「借金のつけ回し」、ってよく言われますよね。我々世代は将来の世代に借金を残しちゃいけないんだと。

 でも、ちょっと考えれば、これっておかしいって思いません? あなたが国債を買えば、それは「財産」でしょ。それが相続されれば、国債の満期が来た時、あなたの子や孫が国から元本や利子を貰えるんでしょ。i生きている間に満期がくれば、その人(世代)だけで完結し、将来世代へったくれもない。

 なんでこれが「借金のつけ回し」になるの?その逆で子や孫は得するんでしょ、我々世代(お金)のおかげで。おかしいですか? おかしいって方は反論してほしいですね。

目からウロコの財政学講座② ・・・増税先送りは無責任という人へ

 要は、実際のお金の流れからすると、国債を発行するということは、国民からすれば国債を買う、すなわち「支出」、国(政府)からすると「収入」。国債の満期(返済期限)がくると、国民には「収入(償還金)」が入ってくるし、国(政府)は「支出(支払い)」をしなければならない。結果、「差し引きゼロ(正確に言えば、利子分や国債価格差額分を除く)」ということになるわけです。

 ただし、これはあくまで国債の売買が国内(日本国民が買っている場合)だけで行われている場合。ギリシャや南米の国のように外国(人)が半分以上買っている場合は、国のお金が外国に流出するわけですから、「差し引きゼロ」とは到底ならない。ここが問題なんですね。

 ただ、この点でも、日本の場合は、今でも90%以上は内国民(日本人)が国債を買っている。だから、まだまだ大丈夫なんですね。

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目からウロコの財政学講座⑤・・・増税先送りは無責任という人へ

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国債のほとんどを日本人(内国民)が買っている現状では、その借金は、銀行やサラ金などの借金とは本質的に違います。もし、あえて家計に例えるなら、「旦那が女房に借金している場合」に例えるべきなのです。この場合は、同じ家庭内借金ですから、その家計全体では借金しているわけではありません。旦那と女房で帳消しなのです。だから、この借金がいくら増えたところで、その子供や孫たちがその返済や利払いに苦労することはないのです。

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江田氏が唱えているのは古典的な説だが、少数の人々の間ではかなり根強い影響力を持っているように思われる。それはこの一見単純なロジックが、その単純さゆえに実は結構やっかいな代物であり、きちんと反論しようとすると意外に話がややこしくならざるを得ないからなのかもしれない。

江田氏の説に対しては、すぐさま、中嶋よしふみ氏が反論記事を掲載した(一部を下記に引用)。しかし一見有力な反論に見えるこの論評は、よく考えると江田氏の疑問の核心に答えていない。

国の借金は国民にとって財産? 民進党・江田憲司氏の摩訶不思議な財政学。

・・・

次世代からの前借りとも言える。前借りしてお金を使った側にとっては資産だが、使われた次世代の側にとっては言うまでも無く借金だ。先ほどの例ならばBさんは100万円の国債を確かに相続はしているが、国の借金返済のために税金を100万円「余計に」とられるだけの話だ。錬金術はありませんよ、としか言いようが無い。

・・・

きっと江田氏の話を聞いた生徒たちから、借金は売上から返すんですよね? 国だと多分それは税金ですよね? ということは今のお爺ちゃんたちが貰ってる年金は、将来僕たちが働いて払った税金から返すんですよね? つまり大人の借金を僕たちが返すってことですよね? それってつけ回しって言わないんですか? ……と突っ込まれるだろう。

・・・

お金の流れは、ストックとフロー、あるいは企業会計でBS(資産・負債)、PL(売上・費用)と表現するが、江田氏はフロー・損益の話を無視してストック、つまり資産と負債の部分しか見ていない。PLとBSの関係、ストックとフローの関係は商業高校で簿記3級を習っている高校生でも分かる程度の話だ。

・・・



江田氏が上記の記事を読んだら、きっと次のように反論するだろう。

「国の借金返済のために税金を100万円『余計に』とられるけど、他方では100万円の国債を相続しているから、将来世代の資産と借金は差し引きチャラ、プラマイゼロでしょう。それの何がいけないの?」

江田氏は国債が将来の増税で返済されることを否定しているわけではないし、ストックしか見ていないわけでもない。増税がある一方で、資産ももらっているのだから負担は増えていない、と言っているのだ。フローに着目して説明するならば、将来世代は税金を払うかもしれないが、その際には国債の償還によるキャッシュインフローもあるのだから問題ない、ということになる。


次に、江田氏に直接向けられたものではないが、この種の「ツケ回し否定派」に対する反論として、國枝繁樹氏の解説を見てみたい。

「内国債は将来世代の負担ではないから積極財政を実施すべし」のウソ

氏のポイントは、比較のベースを明確にすることである。簡単に要約すると、「国債が相続される場合」と「国債以外の資産が相続される場合」とを比較すると、前者の場合は将来世代の手許で資産と増税とが相殺されて消えてしまうのに対し、後者は次世代の手許に資産だけが残る。だから後者との比較において、前者では将来世代の負担が増している、というものである。

この議論は、核心に近いところを突いているとは思うが、これだけでは江田氏は次のように反論するだろう。

「だから『プラマイゼロ』だと言っているでしょう。『後者』のシナリオと比較すれば確かにプラスの資産は遺せていないかもしれないが、『前者』も少なくとも次世代に負担を押し付けてはいないでしょう。だって増税は資産と相殺されてゼロなんだから。それの何が問題なの?なぜプラスの資産を遺すことを前提に、『プラマイゼロ』が『負担』という話にすり替わってしまうのか。」


以上見てきたように、「プラマイゼロ」を立証するだけでは、江田氏をはじめとする「ツケ回し否定派」に対する十分な反論とはならないのである。プラマイゼロだから問題ない、というシンプルなロジックこそが、江田理論の基盤であり、その欠陥を理解することは、実はそんなに単純ではない。

(続く)
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2015/07/08

【読書】 「ドイツ帝国」が世界を破滅させる エマニュエル・トッド



 最近のギリシャの債務問題を巡っては、EU・ユーロ圏内でのドイツの発言力の強さが際立っている。と言っても、日本から見えるドイツは、言語も文化も多様な独立主権国家が集まったEUの中の「同輩中の首席」に過ぎない。しかし著者が見据える欧州はドイツ一国によって完全に支配された、米国をも凌駕する規模の覇権国である。

 曰く、ドイツ経済は欧州で一人勝ちし、ロシアからのガスパイプラインも押さえてロシアとの交渉でも主導権を握る。(日本と同様の)高齢化する成熟市場というイメージと裏腹に、欧州は域内に多くの新興国を抱え、これらが安い労働力と豊富な成長機会を提供する。文化・政治的にも、オーストリアやベネルクス、ハンガリーなどは元々ドイツの一部のようなものだし、借金まみれの南欧はドイツに頭が上がらず、フランスは自主的にドイツに隷属した。アメリカはもはや欧州大陸内での当事者能力を失いつつあり、ドイツの対ロ政策に追随することでその弱さを隠している。

 著者はまた、イギリスのEUからの離脱は必然だと予言する。数年前から度々話題に出てくる話だが、これを「独・仏・英を筆頭に多数の国がバランスを保つ多極的な欧州」という枠組みを前提に、「南欧に手を焼くドイツを尻目に、EUから距離を取る」という風にとらえる、いまいちピンと来ない。しかし「南欧が弱いから」ではなく「ドイツが強過ぎるから」という視点で見ると、違うストーリーが見えてくる。
 ドイツが完全に支配するEUという枠組みの中で、イギリスは辺境の島国でしかない。その中でイギリスが強力な発言権を確保することは、これまでもこれからも、あり得ない。それは、ユーロに参加せず大陸から距離を置くというイギリス自身の選択の結果ではない。イギリスはどう足掻いたとしても、経済力・生産力と地理的・文化的近さの両面において他の欧州大陸諸国を手なずける上で圧倒的に優位な地位にあるドイツの発言力に、遠く及ばないのだ。EUの中でのイギリスは、リーダーの一角などではなく、単なるマイノリティでしかない。
 だとするとイギリスの取るべき道は、欧州の中でドイツの属国に成り下がることではなく、アメリカとの特別な関係や、カナダやオーストラリア、アフリカ諸国も含めた英連邦の遺産を活用して独自性を発揮する方向である。

 前半で語られるドイツ論は、(その当否を誰にも評価しきれないところもあって)一つの見方としてなかなか刺激的なのだが、後半は、「富裕層と金融資本が政治を牛耳って可哀そうなギリシャ人に無理やり借金をさせた」というような、根拠のない陳腐な妄想的陰謀論と、サルコジ前大統領への感情的な罵倒が延々と続き、読むに堪えない。

 ケインズ政策を論じた下記の記述に至っては、噴飯ものである。

ケインズの勝利と国家のカムバックが歓迎されました。
…ところが問題がありました。金持ちたちのケインズ主義だったのです。
 景気刺激の財源を貨幣創出―「輪転機を回す」というやつです―で賄えば国家に負担無く済むのにそうはせず、借入で調達したのです。
 これでは、金持ちのお金の安全を確保するばかりで、需要不足にはいささかも根本的な答えとなりません。この贋ケインズ主義は…(後略)



 輪転機を回して財政支出を拡大する(そんなことをすれば当然、通貨の信用は地に堕ちる)のが真正のケインズ主義だなどという珍説は、初めて見た。

 外交力学を論ずる彼の視点は鋭いが、経済を論評すると基礎的な理解を欠いていることを露呈し、その言説の全てが胡散臭く聞こえてくるので、やめた方がいい。

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2015/07/07

ギリシャはユーロを離脱するのか

緊縮策への反対票が上回ったことで、ツィプラス政権は強気な姿勢で交渉に臨むだろう。

これに対し、EU側は譲歩の余地はないことを明言してきた。当初は「緊縮賛成派が6~7割」とか「緊縮受け入れという政策転換を正当化するためのお墨付きを得るため」などという楽観論もあったが、そうであるなら、国民投票をやらせて緊縮賛成への民意を確定させればよかった。EU側が国民投票を行うこと自体に激しく反発したのは、ギリシャからの事前の説明がなかったという事情もあろうが、それも踏まえて、後に緊縮反対への呼びかけを鮮明にするツィプラス政権の魂胆と、ギリシャ国民の空気を当初から正しく読んでいたからなのだろう。

失業率の高いフランスにはギリシャへの同情論もあるようだが、ドイツ国民の大半は譲歩を許さないだろう。週末までのEUの強硬姿勢は、ギリシャ国民に対して緊縮賛成への投票を促す脅しであり、同時にドイツ国民に対するパフォーマンスという側面もあったと思うが、事ここに至ってしまうと、強硬な態度は必ずしも債権回収の極大化につながらないことが、債務問題の難しいところである。

EU側が、妥協せずに緊縮策と債務返済を要求し続ければ、ギリシャは公然と借金を踏み倒す道を選ぶだろう。手続き的にそれがユーロ離脱に直結するわけではないが、こうなってしまっては、ECBにあれこれ指図されるよりは、金融・為替政策を自由に決定できるように自国の通貨を持つことを選択するだろう。
過去の債務を堂々と踏み倒すためには、その後同じ相手から借金しなくてもやっていける見通しが立たなければならない。この点を考えるうえでは、ギリシャの経常収支と、西側以外の資金提供元、具体的にはロシアと中国が鍵となるだろう。

ユーロ離脱後のギリシャは相当な輸入インフレに苦しむことになるが、観光その他の輸出産業は息を吹き返す。近年の緊縮策と内需の縮小により、ギリシャの経常収支はすでに黒字化している。通貨が切り下がれば、大幅な黒字に転換する可能性もある(必需品の輸入依存度も高いので、価格効果が大きく出て少なくとも当面は赤字に転落するだろうし、それが長期化する可能性もあるが)。
ロシアと中国のギリシャへの接近がどの程度進んでいるのかは分からないが、少なくとも規模的には、既にある程度の緊縮を達成したギリシャの多少の赤字を両国でサポートするのは、造作もないだろう。しかしそこまで行ってしまうと、ことは通貨問題に留まらない。ギリシャはEUやNATOからも抜けてロシアの庇護下に入るのか、という話になるが、ギリシャの体質は権威主義的ではないので(もしもそうであればこんなアンコントローラブルな事態にはなっていない)、さすがにその覚悟はないだろう。

それでもユーロ離脱はギリシャにとって、大いに現実味のある選択肢ではあり、かつそれはEUにとって、債権回収という意味では最悪の結果をもたらす。したがって瀬戸際戦略が有効に機能する。今度はEUが、難しい判断を迫られる番である。

ギリシャがどこまで強気に出られるかは、ユーロ離脱後にロシアや中国の軍門に下ることなく経済を再建できるかにかかっていると思われる。もちろん、ギリシャ国民が国民投票で示したのは緊縮策へのNOであってユーロ離脱へのYESではないが、ツィプラス首相の楽観論を完全に鵜呑みにしたとも思えず、離脱のリスクが高まることは理解したうえでのNOだろう。ギリシャ国民が求めるのは相当に大きな譲歩であり、EU側がそれを受け入れることはポルトガルやイタリアなどの手前、難しいのではないか。
土壇場で双方が譲歩して妥協が成立する可能性も残されてはいるが、合意が成立する可能性は、最早5割を切っているように思われる。
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